今日のみ言葉【No.422】(2012年10月12日)
キリストは新しい契約の仲保者なのである。
(ヘブル9:15)
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創世記のエデンの園のお話は、人間が神に反逆し、罪を犯し、神との関係が切れてしまったことを表現しています。
神は人間を救う計画を建て、アブラハムを選びます。
そして、彼を一方的に祝福するという約束を与えられました。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」
(創世記12:2)
旧約の歴史を紐解くと、神の祝福によりアブラハムの子孫は繁栄し、イスラエル民族という一大国家にまで成長したことが書かれています。
しかしこれは、イスラエルの民だけが繁栄をむさぼり、良い思いをするためではありません。
彼らを通して、神の救いが他の人々に与えられるためです。
祝福されるのは、他者への祝福のためなのです。
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ところが、その働きを妨げるものが出てきました。
それは「罪」です。
罪にまみれたイスラエルは自分のことで精一杯になり、他者へ祝福を及ぼすゆとりが無くなってしまいました。
そこで神は、罪を許す方法を授けられました。
動物を犠牲(いけにえ)とすることです。
罪を償うために、動物の命をもってその償いとし、イスラエルの罪を取り除くという律法を定められたのです。
そのことによって、神との関係にわだかまりの無くなったイスラエルは、再び神からの祝福を得、それを他者へと及ぼしていくことが出来るようになりました。
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しかし考えてみれば、山羊や羊や牛の命で人間の罪を償うのは不完全なことです。
神はあえてその不完全さを容認され、祝福を広めることを優先されたのです。
この不完全ないけにえは、完全ないけにえが捧げられた時に終わります。
それがイエス・キリストの十字架なのです。
神の子という、これ以上ないほどの完全な犠牲が、2000年前、人間のために捧げられました。
動物の命で罪を償うという旧い契約が、神の子の命で罪を償うという新しい契約に取って代わられたのです。
「キリストは新しい契約の仲保者なのである。」
とはこのような意味です。
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新しい契約になったのは、人間の努力によったのではありません。
神の方から新しい契約を結んで下さったのです。
人間が努力して神に近づくのではなく、神が人間に近づいてこられること。これが福音の世界です。
夜、灯りをつけて明るくしても、朝、太陽が昇れば、人間が作った灯りはほとんど意味を成さなくなります。
そのようにキリストという「義の太陽」(マラキ書4:2)が昇った今、自分の灯りで照らそうとするのではなく、外から入る日の光を存分に内に受け入れることが祝福を得て生きる生き方です。
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そこで今日からは、自分をスパッと許す生き方をしようではありませんか。
ネチネチと、ああでもないこうでもないと自分を責める生き方は、自分を罰して傷つけるという代償を払って許してもらおうとする生き方です。
それは不完全ないけにえをささげる旧い契約です。
新しい契約の仲保者イエスと共に生きる生き方は、
「彼が私たちの罪や不義の代償を払って下さったのだから、私たちは無罪なのだ」
と感謝してカラッと生きる生き方です。
もちろんキリストをだしにして何の反省もしないで生きるのは神の御心とは違います。
しかし、あえて自分を責めずに、
「ま、いいか!」
とか、
「うん、しょうがない」
とかけ声をかけて、自分を責めない方向に我が心を持っていくのです。
心の中の重い雨戸は、それくらいの力強さで引かないと開きません。
しかし、開いた後に、サァーッと差し込んでくる太陽の光が私たちを暖め、希望を抱かせてれるのです。
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太陽は既に昇っています。心に神の光を入れて参りましょう。
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