今日のみ言葉【No.2780】(2022年 4月 5日)「種まきのたとえ(1)」

ミレー 「種をまく人」

さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、
(ルカ8:4)

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今日からイエス様のたとえ話の中でも最も重要な「種まきのたとえ」に入ります。

マタイは神の国を説明したたとえ話を第13章に集めて書いていますが、最初に出てくる「種まきのたとえ」の構成とその真意がわかれば、他のたとえ話の理解が容易になります。

まず、なぜイエス様がたとえ話を用いられたのかの説明をして、徐々に内容に迫っていきましょう。

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ルカ8章では、2種類の人がイエス様の周りにいたことが記されています。

最初のグループは、弟子と奉仕者(1〜3節)です。

この人たちは与える人で、神のために集まってきました。

12弟子はもちろんのこと、その周りには「多くの婦人たち」がいたと書かれてありますが、ここはもう一段深く読まなければいけない所です。

女性の地位が低かったこの時代に、わざわざ名前を挙げて女性の奉仕者がいたと取り上げられているということは、男性の奉仕者がいたことは言わなくてもわかるでしょう、ということです。

ここにはユダヤ式の「小から大、大から小」の論理(カル・バホメル)があります。

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次のグループは、群衆(4節)です。

「さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた」
(ルカ8:4)

群衆とは、もらう人です。

この人たちは、自分のために集まり、自分の利益に反すれば去ります。

イエス様がたとえ話を使われたのは、この「群衆」という存在があったからです。

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たとえ話と言うと、抽象的で難しい内容を、具体的事例に落として、理解しやすくしてくれる効果があると私たちは思います。

譬(たとえ)が理解できるということは、その話の内容と自分の日常生活の体験とで合致する何事かがあるということです。

ですから、まだ霊的に初歩レベルにいる人は、その時点での恵みを味わい、霊的に深いところを歩いている人は、神の真理の深さを味わえます。

つまり、皆それなりの「わかった」という体験をし、それなりの収穫を得て帰ることができるのです。

ところが、たとえ話には今述べたようなこととは全く正反対の面もあります。

それは、「真理を隠す」効果です。

弟子や奉仕者のように神の真理を求める人には、

「何か引っかかるものがある」

という気持ちにさせ、さらに神の真理を求めようとする意欲を起こさせます。

しかし、群衆のように、神を求めるより自分の利得を求める人には、

「ああ、いい話だった。聞いて得をした」

と感じさせます。

彼らは満足はしますが、それ以上の探求へは進みません。

イエス様は神の御心をあからさまに話さず、譬という形の中に真理を隠して、見出そうとする人だけが見つけられるように話されたのです。

このようにして、たとえ話によって、本当に神を求める人とそうでない人、つまり、神の言葉に信頼を置いて生きようとする人と、神の言葉を自分のために利用しようとする人とが明確に区分されていくのです。

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イエス様のたとえ話から恵みをいただく今日として参りましょう。

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