今日のみ言葉【No.1279】(2016年 4月28日)

夕暮になっても、光があるからである。
(ゼカリヤ14:7)

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ゼカリヤ書の最終章は

「見よ、主の日が来る。」

で始まります。「主の日」とは世の終末、キリストが再臨する時代のことを言います。

この第14章には、ヨハネの黙示録にある大患難時代の様子や、その後に続く千年王国の描写がなされています。

神の地上統治が成される時代、それは、

「夕暮になっても、光がある」
(ゼカリヤ14:7)

という時代です。

具体的に太陽や月がどうなるのかはわかりませんが、神の臨在があるところには常に神の栄光があり、どんどん暗さを増していく夕暮れになっても光があるのです。

このことは感傷的なイメージとしてではなく、私たちが当たり前だと思っているこの世が終わろうとし、新しい神の世界が始まる時、具体的事実として実現されます。

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さて、私たちがこの御言葉を知ったからといって、今すぐ問題が解決し、暗い現実がガラッと変わって明るい毎日になるかといえば、そうとは限りません。

ただひとつ言えることは、聖書を信じ、

「夕暮になっても、光がある」
(ゼカリヤ14:7)

となる未来があると約束する神の言葉を信じていく時、その人の心の中には「希望」という光がともされ、その実現に向かって前に進む力が与えられるということです。

そこから心が明るくなり、目の前にあるものが輝いて目の中に飛び込んでくる日々が始まるのです。

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洗礼を受けるかどうか迷っていたA姉が牧師に相談しました。

あれこれと話した後、最後に、牧師から

「御言葉によって決めてください」

と言われ、彼女はびっくりしました。

「そういえば、御言葉に聞く、などということはしてこなかったなあ」

と気づかされたからです。

「そんなことがあるのかなあ」

と思いながらも、家に帰って早速祈り始めました。

「神様、御言葉に聞くなどしていませんでした。どうか私にもわかるように、御言葉を語ってください。」

彼女は本当に頭を下げて祈りました。

すると、

「『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」

という言葉が心の内に響いてきました。

不思議な体験でした。

彼女はその時、ほとんど開いたことのなかった聖書を開き、念の為に調べてみました。

すると、ヨハネによる福音書第1章23節にその言葉が書かれてあるのを発見しました。

A姉はこれで確信を得、受洗を決意しました。

やがて洗礼を受けたその日、教会からの帰り道の空がキラキラと輝いて見えました。

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神の約束の言葉を信じる人生は、夕暮れになっても光がある人生です。

今日も神の輝きをいただき、光を見つめる一日として歩んで参りましょう。

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