今日のみ言葉【No.413】(2012年10月 2日)
しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。
(ピレモン1:16)
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今日の聖句を理解するには、当時の状況、特に奴隷制度のことを知らなければなりません。
ピレモンは主人でオネシモはその奴隷でした。
奴隷と言っても、かつてのアメリカの黒人奴隷のような肉体労働ばかりさせられた無教育な人だけではありませんでした。
知的に優れた人たちが、奴隷という身分ながら、家庭教師をしていたり、文化的な指導をしていたのです。
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オネシモは主人ピレモンのところから逃げ出しました。
その理由は明らかではありませんが、
「もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、」
と18節にありますから、ピレモンに迷惑をかけたことは確かでしょう。
パウロはそのことを裁くのではなく、むしろ、
「それをわたしの借りにしておいてほしい。」
と雇用主であるピレモンに懇願しています。
オネシモを
「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として」
と見ているからです。
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神が最も注目されるのは、
「その人が役に立つかどうかの能力」
ではありません。
むしろ、家族としての
「関係」
です。
すなわち、交換不能な家族の一員かどうかということです。
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奴隷は主人の役に立つか立たないかでその存在価値が決まります。
主人に迷惑をかけ、負債を与えるような奴隷は必要ないのです。
主人はもっと役に立つ別の奴隷に交換します。
しかし、家族は交換が出来ません。
もっと親の言うことを聞き、よくお手伝いをする子どもと交換する…、などという事は考えられません。
パウロはオネシモを奴隷としてふさわしくなったから受け入れてくれ、とピレモンに頼んだのではありません。
オネシモは身分としては奴隷でありながら、イエス・キリストを受け入れた主にある兄弟である。
その神の家族の一員として、彼を今一度受け入れてくれ、と主人ピレモンに頼んだのです。
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神様は、キリストを信じた者を神の子として下さいます。
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」
(ヨハネ1:12)
神の家族の中にいるということは、何かをして役に立つ状態ででいなければその中から追い出される…、というものではないことを肝に銘じましょう。
私たちはこの世で生活しているので、あまりにも
「役に立つか、立たないか」
「使えるか、使えないか」
という基準でものを見ることに慣れ、その基準に非常に敏感です。
しかし、家族である限り、そのつながりは何をもってしても切られないことを覚えておきましょう。
神はあなたを見捨てないと約束しておられます。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」
(ヨハネ14:18)
この約束の方向にきっちりと自分の心を向けるのです。
さもないと、
「結局役に立たなければ生きていけない」
という思いが、いつの間にかあなたの心の中に忍び寄ってきます。
毎日々々、心のワイパーを動かして、いつの間にか曇ってしまった心のガラスをきれいにしましょう。
神様の世界は目の前にあったことが見えてくることでしょう。
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何の役に立っていそうでなくても、堂々と神の家族の中にいられる恵みに心をとめて参りましょう。
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