今日のみ言葉【No.2760】(2022年 3月 4日)「パリサイ人シモンと罪の女(1)」
あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
(ルカ7:36)
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この御言葉メールでは、毎週火曜日と金曜日にルカによる福音書の講解メッセージをお送りしています。
今回からパリサイ人シモンと罪の女の話に移ります。
ナルドの香油の話だと言った方が親しみがあるかもしれません。
ここをよく理解するために、しばらくの間、当時の背景を学んでいきましょう。
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まず、「パリサイ人」です。
パリサイ人とは、ユダヤ教の律法を熱心に研究し、厳格に守る人たちです。
彼らは律法の教師(ラビ)を食事に招き、先生から話を聞いて学ぶという習慣がありました。
その場には、招かれたお客様はもちろんですが、食事をしないで遠巻きに話を聞く一般の人たちも参加することが許されていました。
ですから、ちょっとした公開講演会のようなものだったのです。
「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」
(ルカ7:36)
とはそのようなことです。
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そのまじめな食事の席に、招かれざる招待客が現れました。
「するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて」
(ルカ7:37)
とあるのがそれです。
「罪の女」とは聖書の婉曲的表現で、遊女や娼婦のことであり、現代で言えば性風俗業の女性のことです。
イエス様を招いたパリサイ人はシモンという名前が出されていますが、この女の人の場合、愛の配慮によってあえて名前が出されていません。
しかし、この場にいた人たちは、
「ああ、あの女だ」
と素性も何もかも知っていたことは明らかです。
シモンが心の中で
「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」
(ルカ7:39)
と言ったのがその証拠です。
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彼女がこの場に来てしまったということ自体がパリサイ人シモンにとっては問題です。
彼にとっては、罪の女の存在(being)がそもそも無いものであって欲しいのです。
ところが、beingだけでなく、彼女の奇想天外な行為(doing)は彼を驚かせました。
beingもdoingも否定されているこの女性が、この後どのようなお取り扱いを受けるのか?
以下、次回に続きます。
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聖書を先入観抜きで、まずありのまま読むことに心がける今日として参りましょう。
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