今日のみ言葉【No.1650】(2017年11月17日)「 少し休んでみることから…」
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
(マルコ2:27)
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「テレビを見るとバカになる」とは極論ですが、視聴者受けを狙って善と悪を際立たせるように作っている番組を多く見かけます。
有名人に対する報道でも、昨日まで正義の味方扱いだったのが今日は極悪人というレッテル貼りをするという風で、中間色のコメンテーターはほとんど使われていません。
これに慣れてしまうと、考え方が「白か黒か、善か悪か」の二元論になります。
心療内科のお医者さんは、
「それだと鬱になりやすいですよ。0か100かの二者択一しかない思考法だと、たとえ99点取っても満点に届かないので0点に等しくなるからです」
とアドバイスしてくれます。
私たちは楽な方に流されないように警戒する必要があるようです。
イエス様が到来した時代も同様で、ただ律法さえ守ればいいという曲解された律法主義がはびこっていました。
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今日の聖句の
「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」
(マルコ2:27)
をグッと身近に引き寄せて理解するためには、現代用語に入れ替えて読んでみる方法が有効です。
たとえばあなたが会社にお勤めなら、
「有給休暇は社員のためにあるもので、社員が有給休暇のためにあるのではない」
「予算は人のためにあるもので、人が予算のためにあるのではない」
というのはどうでしょうか?
あなたが子育て中の親なら、
「学校は子供のためにあるもので、子供が学校のためにあるのではない」
と言われると、何か新しい発想が与えられるような気がします。
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イエス様が来られた新約聖書の時代、本来は祝福の基となるために与えられた律法が、逆に人を縛るものとなっていました。
安息日は7日に1回、労働を休止して神を仰ぐ日として生きるように定められました。
それは人間に自分が造られた意味と人生の目標を再確認させ、新たな力を得て人々の祝福のために次の6日間働くための日でした。
しかし当時の実態は、祝福はそっちのけで、人々はただ安息日を守ることに汲々とし、常に律法に違反していないかと恐れを持って生きていたのでした。
イエス・キリストはこの現実の姿を神の御心に合わせて正そうとされました。
イエス様が責める人々は、このように神が要求していない重荷を負わせようとする律法学者やパリサイ人たちです。
決して負い切れない重荷を負えずに苦しんでいる人たちではありません。
むしろそのような人は重荷を置いて休まなければならないのです。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」
(マタイ11:28)
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重荷を下ろすことにためらいを感じる人は、先ほど紹介した「0か100か、全か無か思考」のパターンに陥っているのかもしれません。
最初から全部下ろせなければ、幾分かでもいいからイエス様にお任せしようとすることです。
誰かに任せるとうまくやってもらえないケースがありますから、「そうなるくらいなら全部自分が引き受ける…」という人生の経験をすることがあります。
ですから、まずチョッピリ、失っても安全な部分から、お試しとして…。
そして具合を見てゆだねる領域を徐々に拡大していけばよいのです。
そこで得られる平安が確かなものであると確信できれば、やがて全てをお任せできる日がやってくることでしょう。
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あなたのために命を捨てたイエス・キリストと共に味わう祝福を、少しずつ、一つずつ味わってみようとする今日として参りましょう。
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