今日のみ言葉【No.356】(2012年 7月20日)

すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。
(第1コリント14:15)

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断食祈祷院で1週間の断食祈祷をしたことがあります。

3日目が空腹感のピークで、苦しいのはそこまで。4日目からは逆に体が軽くなるというのは本当でした。

何よりも肉体の働きが衰え下がっていくので、霊的な部分が活発になるのを感じます。

肉が死ぬ分、霊が生きるのでしょう。

聖書の言葉がスパスパ入ってきて、理屈抜きで納得できます。

「霊によって霊のことを解釈する」
(第1コリント2:13)

とはこのことだな、と実感しました。

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但しこれは私の主観的体験で、私自身にとって真実でも、他の人にそれを証明することは出来ません。

ですから、霊的事柄に関して人々が、「危なさそう」、「うさんくさい」、「一方的すぎる」と感じるのも当然のことです。

今日の聖句の

「霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」

とは、この辺の消息を語っています。

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知性で祈るとは、周囲の人が理解できる言葉で祈るということです。

聖霊に満たされると、その人が習ったこともない外国語で、あるいは天的な言葉で祈り出すという霊的現象が現れることがあります。

これは「異言(いげん)」と聖書に記されています。

祈る本人はそれでよいのですが、周囲の人は何を言っているのかさっぱり分かりません。

これではせっかく人々が教会に来ても、壁を感じてしまうでしょう。

そこでパウロは、知性で祈りなさい、と勧めています。

それは、愛から出た配慮です。

愛によって自分の自由を制限し、他者のために犠牲を払うことを喜びとする。

十字架の愛に応答するとは、このような事の積み重ねです。

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周りの人のためにどれだけ自分の自由を捧げられるか。それが愛のバロメーターになります。

僅かなものをも捨てられない私たちですが、気がついたその瞬間に捧げる決心をする機会を持って参りましょう。