今日のみ言葉【No.348】(2012年 7月10日)
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
(第1コリント6:20)
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今日の聖句の
「代価を払って買いとられた」
とは、当時の奴隷市場が背景にあります。
代価を払って買い取ることをキリスト教では「贖う(あがなう)」という語を用います。
新約聖書が書かれたギリシャ語で「贖う」は、
(1)アゴラゾー
奴隷を買い取ったがまだ市場の中にいる。
(2)エクサゴラゾー
奴隷を買い取り、市場の中から外に出す。
(3)リュトロオー
奴隷は買い取った主人に仕えるも仕えないも自由で、完全に解放する。
の3つあります。
(『信じるだけで救われる』,高木慶太著,いのちのことば社,2004年,P16より)
イエス・キリストはご自分の命を差し出し、罪の奴隷であった私たちを買い取って下さいました。
そしてその贖いは3番目の、完全に自由にする、というものなのです。
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「自由だからと言って何でもしていいわけではないだろう…」
とあなたは思いますか?
驚くべき事にパウロは、
「すべてのことは、わたしに許されている。」
(第1コリント6:12)
と語っています。クリスチャンは本当に自由なのです。
そしてそれに続いて、
「しかし、すべてのことが益になるわけではない。」
とあります。
自分にも他者にも益にならないことはしない、という愛によって自由を制限する、ということが後に続くのです。
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「自由」と「愛」がキーワードです。
奴隷の身であった私を、命がけどころか、本当に死んで命を投げ出して下さり、その命の代価でもって私が自由にされた、と分かれば、
「自由なんだから自分の好き勝手に生きよう」
などとは到底思えないはずです。
その愛を思えば不品行などとてもできない、キリストの愛に万分の一でも報いていきたい、と思うものです。
これが神との人格的関係があるということであり、律法や道徳で善行をする、ということの違いです。
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耳にピアスをしている人が珍しかったのは昔のことで、今はファッションの一部として認められるようになりました。
実はピアスの起源は旧約聖書にあります。
「奴隷がもし『わたしは、わたしの主人と、わたしの妻と子供を愛します。わたしは自由の身となって去ることを好みません』と明言するならば、」
(出エジプト記21:5)
というくらいに愛にあふれる主人で、一生この方に仕えていきたい、と奴隷が願うほどの良き主人がいたのです。
その場合、
「その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。」
(出エジプト記21:6)
ですから、ピアスは愛する主人のために一生を捧げるというしるしだったのです。
義務や仕事として良いことをするのではなく、愛の応答として良いことをしていくこと。
それが、自分のからだをもって神の栄光をあらわすことです。
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贖われていることを深く思う一日として参りましょう。
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