今日のみ言葉(2012年 4月20日)【No.290】
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
(ヨハネ13:8)
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キリストの十二弟子は、よく「誰がこの中で一番偉いか」という論争をしました。
その弟子たちに謙遜を教えるため、イエス様は最後の晩餐の席で彼らの足を洗い始めたのです。
当時、その仕事は奴隷の仕事でした。
先生であるイエス様が弟子たちの足を洗おうとされたのですから、当然、驚きと当惑が彼らを襲ったことでしょう。
一番弟子と自負するペテロが、
「わたしの足を決して洗わないで下さい」
と言ったのもうなずけます。
しかしそのペテロに対して、イエス様は、
「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」
と言ったのです。
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足の汚れとは、この地上を生きる内にまみれる「罪」を意味しています。
聖書で言う「罪」とは、この世の法律を破った「罪」とは意味が違います。
この世では心で思っても実行に移さなければ罪に問われませんが、神の前ではその思いがあるだけで罪です。
また、思いや方向は正しくても、それを果たす力がない能力の不足も罪に当たります。
的に向けて放たれたはずの矢が、外れたり、途中で届かなかったりしたら失敗であるように、「的外れ」が罪なのです。
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神の規準は遥かに高く、この基準を満たせる人間はいません。
その事を認め、たとえ自分から足を汚した自覚はなくとも、素直にキリストに自分の足を差し出すことが信仰の第一歩です。
キリストとの関わりを深め、神に近づけば近づく程、自分の罪に気づき出します。
そこからは、「わたしの足を決して洗わないで下さい」と、人間の心の内で抵抗が始まりますから、一直線に洗礼まで向かう人は稀です。
しかし、紆余曲折を経ながらも、神は祈りに応えられ、その人を導き続けられます。
最後の決断はその人自身の自由意志に任せられていますが、それまで、周囲の人は神の愛を注ぐことに専念することです。
罪を示されるのは聖霊様の働きですから…。
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今日も神の愛を語る者として生きて参りましょう。
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