今日のみ言葉【No.2053】(2019年 7月10日)「祝福と恵みの源となる」

2019年7月10日

兄弟よ。わたしは、あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたからである。
(ピレモン1:7)

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英語の聖書で最も短い節は、ヨハネによる福音書第11章35節です。

口語訳聖書では

「イエスは涙を流された」

ですが、英語(NIV)では

“Jesus wept."

というたった2語です。

しかし、文字数に関係なく、そこにはイエス様の深い憐れみが込められています。

ピレモンへの手紙も大変短い書ですが、そこには深い神の愛が込められています。

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ピレモンはパウロを通して信仰を持ち、コロサイで家の教会を開いていました。

彼は、人々を迎え入れるほどの大きさの家、そして奴隷を所有していたことから、裕福な人物であったことがうかがえます。

しかし、富裕層にありがちな傲慢さが見られないのは、妻や子を信仰に導き、一家揃ってキリストに仕えていたことからもわかります。

さて、彼の奴隷であったオネシモが逃げ出し、損害を与えたようです。

おそらく何か物を盗んでいったのだろうと言われています。

不思議なことにオネシモはローマで捕らえられ、パウロの所に寄せられ、悔い改めてクリスチャンとなりました。

そこでパウロは、ピレモンよ、あなたの家にオネシモを送るが、今度は奴隷としてではなく、キリストにある兄弟として受け入れてくれと懇願しています。

人生には思わぬチャレンジがあるものです。

ピレモンは恩師パウロからのリクエストにどう対応したでしょうか?

残念ながらその結果までは聖書には記されていません。

しかし、

「兄弟よ。わたしは、あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたからである」
(ピレモン1:7)

とあるように、ピレモンは教会の人々を愛し、力づける人であり、その知らせはパウロにも届き、彼が「多くの喜びと慰めとを与えられた」と書くくらいですから、その犠牲的愛によって過去のわだかまりを乗り越え、オネシモを受け入れたであろうことは想像に難くありません。

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ピレモンのように信仰のチャレンジを受けた場合、どうしたら良いのでしょうか?

あなたは

「私は神を信じているから神の守りがあり、教会の人々から祈られてもいるから試練が来ても大丈夫だ。安泰だ」

と思ってはいませんか?

ならばその信仰は本物か、という意味で私たちは試されるのです。

それが人生のチャレンジの時です。

ピレモンが奴隷であったオネシモを赦し、今度は奴隷としてでなく、同じ平等な立場のキリストにある兄弟として受け入れるか、とパウロから迫られた時、それ相当の葛藤があったはずです。

もちろん神の守りと聖霊の導きはありますが、どのような選択をするのかは人間に任されています。

ですから、のほほんとはしておれないのです。

祝福を選び取るか、呪いの道をたどるか。

それは私たちの選択にかかっているのです。

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実はパウロは同じような経験を持っています。

第一次伝道旅行に同行したマルコという若者がホームシックになったらしく、途中で脱落して帰ってしまいました。

このマルコをもう一度連れて行くかどうかでパウロとバルナバとの間で激論が起こり、とうとう二人は別れ別れで伝道することになりました。

マルコはこの騒動を引き起こした種となってしまったのです。

彼は

「私のせいでこんなことになってしまって…」

と、どんなにか自分を責めたでしょうか。

しかし、ここが人生の選択の時なのです。

神の愛と兄弟姉妹の祈りがあるからと悔い改めてやり直そうとするのか、神が遣わしたバルナバという先輩が目に入らずに自分で自分を見限ってしまうのか…。

神は折々にバルナバという存在をあなたの人生にも送ってくださるのです。

マルコは神の愛があると信じ、神の赦しがあると信じる生き方を選びました。

彼は後にマルコによる福音書の記者となり、パウロからは

「ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから」
(第2テモテ4:11)

と願われるほどの者となりました。

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これは良い例でしたが、その反対の例もパウロは体験しました。

デマスという人です。

彼はパウロと共に伝道旅行に同行した人でした。

しかし、

「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい」
(第2テモテ4:10)

とあるように、神のもとから離れる選択をした人でした。

同じ祈りが捧げられているにもかかわらず、その結果が正反対であるのは、その人の選択を神様は重視しておられるからです。

パウロはそのことを痛切な経験を通して知っているので、ピレモンに対して「命令」ではなく「懇願」という形で手紙を書きました。

私たちも同じです。

神の愛があり、

「全て相働いて最善となる」

と信じる方を選び取るか、

「いや、そんなことはないのだ」

と信じる方を選び取るか、それはあなた次第なのです。

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最後に蔦田公義師が体験されたお話を記します。

先生がインド宣教に従事していた時、老練な宣教師が新任の宣教師の肩に手を置いて祈る着任の祈りを見た時のことです。

その祈りは

「主よ。この器を、この地の問題や課題となすのではなく、祝福と恵みの源となしたまえ」

という祈りでした。

蔦田師はこう書いておられます。

「そう祈られた一人一人の器のその後を見ると、今に至るまで主がその祈りに答え続けておられることがわかる」
(『新聖書講解シリーズ9』、いのちのことば社、P336)

この神の恵みに応答していくかどうかの選択は、私たちに与えられていることを心しておきましょう。

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神の愛を選び取る今日として参りましょう。

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