今日のみ言葉【No.3482】(2024年10月22日)「キリストの弟子となるとは(3)」
自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
(ルカ14:27)
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「十字架を負う」と言うと、一般の日本人は、
「どうしても避けられない辛い運命があるが、それを甘んじて引き受け、立ち向かって生きていくこと」
と理解しているようです。
ですから、「病という十字架」、「親が作った借金という十字架」という使われ方をします。
では、聖書が言う本来の意味とはどういうものでしょう?
イエス・キリストが実際にその語を使われた場面から考えてみましょう。
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イエス様は、
「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」
(ルカ14:27)
と言われました。
まず基本的な所から行きますが、十字架とは試練のことではなく、ローマ帝国の死刑の道具です。
ですから、十字架は直接的には個人の試練や苦労を意味しません。
しかし、「自分の十字架」という言い方にすると、十字架は死刑の道具でしたから、「自分を死に至らせるもの」という意味になります。
したがて、十字架を負うとは、
「個人の快適さを優先せず、イエス様のように自己犠牲の生涯を送ること」
となります。
キリストの弟子となるとは、そのような生涯を送ることだとイエス様は言われたのです。
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では、具体的にどのような犠牲を払わなければならないのでしょうか?
まず、信仰を表明することによって、侮辱や迫害や誤解を受けます。
さらに、誘惑との戦いがあります。
現代日本では、クリスチャンであることを表明しても迫害を受けず、かえって尊敬を受けることがあります。
これは歴史的・世界的に見ても極めて珍しい状態です。
たとえば、日本のすぐお隣の中国で、自分はキリスト教の信仰を持っていると表明する中国人がいたら、その人の身の安全は保証されず、様々な不都合な目に遭う可能性大です。
クリスチャンになったら損をすることがたくさんあるのです。
そのことを事前に知り、迫害も誘惑に遭うことも折り込み済みで、私はキリストの弟子としてイエス様についていきたいです、というのが弟子の在り方なのです。
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ただし、このような十字架を負う生き方は、強制されてはなりません。
十字架は、自発的に自分から負うことに意味があるのです。
「自発的に」とは、英語の「voluntarily」で、ボランティアということです。
被災地にボランティアで行く人は、現地でお弁当が支給されるとは考えません。
自分で自分を養うことが前提です。
自分の十字架を負うとは、自分の自由意志で決めることであり、そこから先は人を当てにせず、自分で自分を養う覚悟でやっていくのです。
しかし、その過程で、思いもよらない神の恵みがあるので、感謝し、信仰が支えられ、続けられます。
我力でやろうとしてできるものではありません。
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キリストの弟子となる時に、あなたの本音が問われます。
あなたが負える「自分の十字架」とは何でしょうか?
あなたは自分から選んで負っている十字架がありますか?
それとも、負わせられて十字架を背負っておられますか?
十字架について様々思いめぐらす今日として参りましょう。
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