今日のみ言葉【No.2094】(2019年 9月11日)「朝と共に喜びが来る毎日」
その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。
(詩篇30:5)
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油をひいたフライパンを強火で熱し、煙が出るくらいまで熱くなったところに、いきなり水を注いだらどうなると思いますか?
水は「パーン!」とものすごい勢いで弾かれるので、そんな危険なことをしてはいけませんが、聖なる神が罪に対して取る態度はこれと似ています。
神は罪と共には絶対にいないのです。
フライパンが水を激しく弾くさまが神の怒りの激しさにたとえられます。
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神様は怒られる御方です。
その怒りは罪に対して向けられるもので、その怒りの大きさは人間の想像の域を遥かに越えています。
聖書はそれを「怒りの杯」(エレミヤ25:15)と表現しています。
この杯に盛られた神の怒りのすべてを余すところなく飲んでくださったのがイエス・キリストです。
それでもその大きな怒りを受けることにイエス様ご自身が恐れ、避けたかったのだというありのままの感情を聖書は記しています。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
(マタイ26:39)
聖書はさらにもう一度祈ったと記しています。
「また二度目に行って、祈って言われた、『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』」
(マタイ26:42)
実はイエス様はさらにもう一度祈り、計3回祈ったとマタイは正確に記しています。
「それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた」
(マタイ26:44)
それほど神の怒りを受けることは恐ろしいことだったのです。
しかし、十字架上で人間の罪に対する神の怒りをイエス様はすべて受けて下さり、怒りの杯を飲み干して下さいました。
そのことが自分の罪のためであったと信じる者には、神の怒りはもうありません。
旧約聖書の
「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」
(詩篇30:5)
との約束は、新約聖書において完全に成就されています。
自分の罪の恐ろしさに悶え苦しむ夜はもはや過ぎ、毎日が
「朝と共に喜びが来る」
日々となっているのです。
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昔のアメリカの話。
あるクリスチャンの農夫が道を馬車でトコトコ進んでいると、大きな荷物を背負ってよたよたと歩いているおばあさんとすれ違いました。
聞けば同じ町に行くということ。
「後ろの荷台で良かったら乗ってくかい?」
と親切に声をかけると、おばあさんは
「それはありがたい」
と疲れた顔から笑顔に変わり、早速荷台に乗り、馬車は再び進み始めました。
このクリスチャンは大変良い気分になりました。
「今日は俺は良いことをした。このおばあさんの重荷を楽にしてあげたんだから神様もきっとお喜びだろう」
ところが、後ろから聞こえてくる声は「う~ん、う~ん」といううめき声です。
どうしたのかと思って振り返ると、何とおばあさんは荷台に立って、しかも背中に荷物を背負ったままではありませんか!
彼は驚いて言いました。
「ばあちゃん、なんで荷物を下ろして座っていないんだ?」
すると
「だってよー、歩かなくて済むだけでありがたいんだから、せめて荷物ぐらいは持って立つくらいはしないと、と思ってよー…」
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皆さん、もう罪の重荷は背負わなくてよいのですから、一切を神様に預けて、楽になりましょう。
神様にゆだねた平安の一日を過ごされますように…。
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