今日のみ言葉【No.953】(2015年 1月13日)
われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。
(詩篇123:2)
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パリで起きた連続テロ事件は痛ましい限りです。
新聞社と共にユダヤ系食材スーパーが襲われ、犠牲者が出たことを受け、イスラエルのネタニヤフ首相は、
「イスラエルに移住したい全てのユダヤ人は温かく歓迎される」
との声明を出しました(朝日新聞2015年1月11日)。
ここ数年、ヨーロッパ内に増す反ユダヤ人感情に苦しむ人たちを配慮しての言葉です。
昔も今も、ユダヤ人は迫害の中を通らされています。
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詩篇第123篇は、ネヘミヤが初めてエルサレムに戻った時の歌とされています。
彼はその荒廃を目の当たりにし、かつ、城壁再建に対する妨害に苦しみました。
そのような状況の中、エルサレムの復興に努力するネヘミヤの思いと、周囲の人の嘲笑にめげずに巡礼に向かう自分たちの苦難を重ねあわせた歌なのです。
ポイントは、
「われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」
(詩篇123:2)
というところです。
妨害する人たちに目を注ぐのではなく、主に目を注ぎ、神のなされる業を待つことなのです。
その様子は、
「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、」
(詩篇123:2)
と表現されています。
しもべ(奴隷)、はしため(女奴隷)は自分の思いで動いてはいけません。
主人がどう動くかによって自分たちの行動が決まるからです。
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私たちも同じです。
周囲の人の誤解に遭ったり、妨害に悩まされることがあるでしょう。
すると、その人達をやっつけたくなるのは人間の自然の感情としてあり得ることです。
2千年以上前のユダヤ人たちも同じ思いを味わいました。
しかし、神が提示する答は、
「われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」
(詩篇123:2)
という態度です。そしてそこに徹することです。
「神の手」、すなわち神様がどう現実に働きかけ、動かされるのかを鋭い目で見続け、そこに神の憐れみの業を見出していくことなのです。
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今日も一日、神の御手を見る一日として参りましょう。
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