今日のみ言葉(2012年 1月31日)【No.232】
「また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。」
(マタイ23:10)
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今年のみ言葉メールの聖書個所は、新約聖書の最初のマタイによる福音書から1章ずつ選んでいます。
皆様の聖書通読の一つの助けになればという意味もあります。
来週マタイが終わり、マルコによる福音書に入ります。
順調に進めば、4月中に四福音書は読み終わり、半年でローマ人への手紙まで完了する予定です。
聖書の言葉に少しでも多くふれていただければ幸いです。
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今日のマタイ23章はパリサイ人への告発が、これでもかというくらいに書かれています。
こんなにイエス様はしつこく集中的にパリサイ人らを批判したのかというと、そうではなく、これはマタイという人の性格のためです。
彼は収税人だったので、集めて整理するのが得意でした。
ですから、イエス様が別々の場所で語られたお話を集め、テーマによって分類し、
「この章は○○の話。次の章は△△の話。」
というように整理して編集したのです。
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今日の聖句は、教師という職業を否定しているのではありません。
また、絶対に誰をも「先生」と呼んではいけないと言っているのではありません。
パリサイ人が批判された理由は、彼らは外側だけを繕い、内側がいい加減だったからです。
自分を正しい側とし、人にはそれを教えますが、自分はその正しいことを実行しない。
これがパリサイ人の正体だ、とイエス様は明らかにされました。
「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」
(マタイ23:3)
つまり、内と外が一致していない人は、イエス様が言う「先生」ではない、ということです。
内と外が神の御心の通りで一致している人にのみならいなさい、その人こそが先生である、とイエス様は語られているのです。
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ついつい人に教えたくなる時があります。
教えても構いません。先生の立場に立って良いのです。
ただし、その時に、
自分は神から赦されなければならない存在だ
ということを覚えることです。
それを忘れて、教える方に熱中してしまうと、内と外が一致していないパリサイ人同様になっていることに気づきもせず、
「こんなに教えてやっているのにあの人はなぜそうしないのか!」
という憤りが心を占めてしまうのです。
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そうならずにすむ方法は、聖書の読み方にあります。
聖書を自分に対して語りかけられたものとして読む、ということです。
誰かに語られたお話、として読むのではなく、
「私に今語られている言葉」
として読むのです。
そこに、聖書の素晴らしさを感じ、み言葉に対する驚きが生まれます。
そして、パリサイ人とは誰でもない、この私である、という罪人の自覚が生まれます。
そこで人は本当の十字架の恵みに触れるのです。
その恵みを持って人と接する時、あなたの教えることは人に伝わっていきます。
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聖書を読む前に、「主よどうぞお語り下さい」と短く祈ってから読み始めていきましょう。
聖霊があなたの心に働かれます。
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