今日のみ言葉【No.1840】(2018年 9月20日)「 復活(1)」
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
(ローマ7:24)
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昔々の高校時代のお話です。
春爛漫の4月、受験競争をくぐり抜け、ほっと安心して窓から顔を出す1年生の頭の上に、2階の2年生がバケツの水をかけるという伝統がありました。
我々は担任教師に被害を訴え、上から水が降ってくる「洗礼」は止まりました。
さて翌年、「長年の伝統を我らの代で途絶えさせて良いのか」という妙な理屈で、2年生になった我々は新1年生への水かけ行事を「復活」させました。
それを知った担任教師は烈火の如く怒りました。
「自分たちがされて嫌だったことを、なぜやるのか!」
厳しい指導が1時間みっちり続き、先生に「すいませんでした」と謝り、翌日1年生に謝りに行くということでその場は終わりました。
放課後、いつもは職員室にいるはずの先生が、体育館裏の草の上に腰を下ろし、ボーッと宙を見つめている姿を見ました。
まるで熱を冷ましているかのような光景でした。
その様子が口々に伝わり、
「俺達、先生に悪いことしたなあ」
と、本当に身にしみて自分たちが悪かったと反省したのはその時です。
後にそのいたずらっ子たちの一人は高校の教師となり、一人は寺の坊主となり、一人は教会の牧師となっています。
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前置きが長くなりましたが、この実話ストーリーには3つのポイントがあります。
1つ目は、「やれと言われたことをやらず、やるなと言われたことをやる」という人間の罪の姿です。
自分がされて嫌だったことなら他者にもしないはずが、被害者だった人間が加害者側に変わってしまう罪の力がここに見られます。
2つ目は、人間の罪は教育や指導によって表面に出ないようにはできますが、根本的処理には力不足だということです。
そして3つ目は、人を悔い改めに導くのは、誰かが自分の罪のために犠牲となってくれた、と知らされた時からだということです。
人格的存在が自分のために傷ついてくれ、しかもその根底に愛があることがわかる時、悔い改めが起きるのです。
その究極的存在がイエス・キリストです。
イエスの十字架は私のためであった、私の罪を喜んで引き受け、愛をもって死んでくれたと信ずるとき、私たちの罪はゆるされます。
霊魂の救いはその瞬間に起き、人は霊的に新しく生まれます。
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ところが、肉体はまだ古いままであるということが問題となります。
魂は新しくなったのに、依然として古い肉体の中に宿っているのです。
死に向かう肉体と命に向かう魂。
両者逆方向に向かう中でクリスチャンは生きねばなりません。
パウロはこれを
「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている」
(ローマ7:25)
と表現し、
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」
(ローマ7:24)
と嘆いています。
この問題については引き続き語ることにいたします。
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まず霊魂が救われていることを感謝し、今日の現実に対処する一日として参りましょう。
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