今日のみ言葉【No.1015】(2015年 3月28日)

三つよりの綱はたやすくは切れない。
(伝道の書4:12)

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私は昨年ビデオテープをほとんど処分して捨てました。

見る機械が壊れてもう見ることができなくなっていたからです。

時代は画質がぐんとアップしたDVDとなり、やがてそれより更に画質の良いブルーレイとなりました。

ビデオテープ時代を思い出すと、「よくあんな画質の粗いのを見てたなー」と思います。

さて、私は工学部出身なので、ビデオデッキの性能向上のために努力を重ねた技術者の方々のことが心配になります。

あれほど時間と労力を注ぎ、犠牲を払って作り出したものが、あっという間に時代遅れとなり、捨てられ、忘れ去られていくわけですから、その空しさを何でまぎらわしているのだろう、と思うのです。

きっと何か新しい分野に挑戦しているのでしょうが、それすらも数年後には無用の長物になっているのかもしれないと考えると、この世の移り変わりの激しさに翻弄される人間の空しさが浮かび上がってきます。

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伝道の書第4章では更に4つの空しさが語られます。

最初に、この世にはしえたげられる者が必ずおり、彼らを救うはずの強者が、権力を適正に用いず、かえって更にしえたげている現実です。

次に、人間の社会的成功です。

その動機は「ねたみ」であると喝破されています。

つまり、

「見返してやる!」
「倍返しだ!」

という思いが強烈なエネルギーとなっているのです。

伝道の書の記者は、これを、

「風を捕えるようである」

と空しさを表現しています。

3つ目は、一人で生きる孤独の空しさです。

この類の人は

「その目は富に飽くことがない」
(伝道の書4:8)

とあるように、お金を自分の支えとしようとします。

しかし、肝心な時にそれは助けとはなりません。

「しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。」
(伝道の書4:10)

最後に、王となる空しさです。

現代で言えば、国のトップである首相や、組織の長たる市長や社長を思い起こせばよいでしょう。

たとえ彼らが貧民階級の出身で、しえたげられる者の気持ちがよくわかり、あるいは迫害を受けて投獄された経験があったとしても、

「老いて愚かで、もはや、いさめをいれることを知らない王」
(伝道の書4:13)

となっていくのは共通だという現実を目の当たりにするのです。

まことにこの世は空しいというのが伝道の書の記者の見たありのままなのです。

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私達はどこかでこの世に見切りをつけなければなりません。

この世は空しいからです。

また、私達はどこかでこの世の空しさを徹底的に味わされます。

頼りにしていた人、お金、契約、機械など様々なものが、ある時、何の助けにもならなかったと、化けの皮が剥がされる時がそれです。

その時に、死の向こう側の永遠の世界を知っている者は幸いです。

この世に執着する必要はなく、手放す恵みの中でこの世を生きることができるからです。

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天国に向かう道中では、

「三つよりの綱はたやすくは切れない。」
(伝道の書4:12)

とあるように、不動の神を中心として生きることが、この世を歩む私達に必要なことです。

1本の綱は神様の綱ですから動きません。

では残る2本はどうなるのでしょうか?

三つよりの糸を織る場合、お互い反対方向に回しながら撚っていきます。

片方を時計回りに回したら、もう一方を反時計回りに回す、ということが繰り返されます。

つまり、私達の周りに起きる良きことも、またその反対の悪しきことも、神様を中心として自分の人生として織り成す時、その人の人生は、

「たやすくは切れない」

という強靭な人生へと神様が造り上げてくださるのです。

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神様の手の中で、強靭な三つよりの綱として織られる一日としてまいりましょう。

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