今日のみ言葉【No.1841】(2018年 9月21日)「 神の国のたとえ(2)」

神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
(マルコ4:26-27)

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花や野菜の種袋には「発芽率○○%」と記載されています。

つまり、蒔いた種が全部芽を出すわけではありません、という種苗メーカーからの断り書きです。

ただしその数字は常温で適切に保管した場合での数字ですから、商店の外の目立つ場所に置かれている種袋は発芽率が低下しているのだそうです。

購入する時は店内に置いてある方を選ぶのが賢い買い方です。

さて、御言葉の種の発芽率は神のみがご存知です。

私たちの役目は蒔くことです。

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神の国、つまり神の影響が及んで神の支配がなされるところには、まず御言葉の種がまかれます。

「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである」
(マルコ4:26)

人がイエス・キリストの言葉を聞き、その心に深く宿したなら、その人は「良い地」になっているのです。

聖書の御言葉を心に留め、そのことを考え、キリストの言葉によって自分がそれまで取り組んできた仕事や他者への接し方、あるいは自分自身の評価が少しでも変わってきたのなら、それは神の支配が及んでいるということです。

その時点で、その人の中に神の国が到来したと言えます。

信仰とは自分の魂の中にイエス様の言葉を宿すことであり、自分の心が表面上から徐々に深いところまでその言葉によって影響され、ついには自分から自分の心を神の支配にゆだねることなのです。

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それには相当の努力が必要とお感じになるかも知れませんが、イエス様のたとえ話ではこうなっているといいます。

「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」
(マルコ4:27)

「夜昼、寝起きしている」とは普通の生活を送っているということです。

その間に、種、つまり御言葉自身に命があるので、努力せねばという思いの有る無しとは関係なく、「芽を出して育って行く」というのです。

人間に必要なのは神の言葉を心にとどめることです。

育てるのは神。まくのは人間です。

人の機嫌を取ったり、顔色をうかがったりして、変形させた種を蒔いてはいけないのです。

また、自分で蒔いて、自分で収穫するのだと力んでもいけません。

私たちが人に伝道する時には、純粋な御言葉の種をまくことに意識を集中するのです。

もちろん、受け入れやすいように配慮して語ることは必要ですが、あくまで育てるのは神だと覚悟して、どの種が芽を出すかには注意を払うことなく、種まきに精を出すのです。

そうすると、やがて収穫の時を迎えるのです。

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私はどの御言葉で救われ、どの牧師の説教で神を知るようになったかをはっきり覚えています。

ところが、

「先生が特別集会に来られた時の、あの説教で私は救われました。先生はこう話されましたよね…」

と私が言うと、どの牧師も

「そうですか。それは良かったですね」

とは言ってくれますが、一緒に感動してくれる様子は見られません。

その時は不思議に思いましたが、私が今その先生方と同じ立場に立ってみてわかりました。

覚えていないのです!

もちろん説教の記録を見ればスラスラと思い出せるのですが、特定のこの御言葉で救ってやろう、などと考えて話しているわけではないので、本当に

「そうですか。それは良かったですね」

と言うしかできないのです。

発芽率など意識せず、御言葉の種をどのくらい蒔いたかなど忘れるほど多く蒔くこと。

この人生の先に喜びと収穫が待っています。

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今日も種を一粒まく一日として参りましょう。

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