今日のみ言葉【No.1788】(2018年 6月28日)「 キリスト教の神(4)」

神みずからが義となり(ローマ3:26)
神は愛である(第1ヨハネ4:8)

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「矛盾(むじゅん)」という言葉があります。

昔中国で、「どんな盾(たて)も突き通す矛(ほこ)」と「どんな矛(ほこ)も防ぐ盾(たて)」を売っていた男がいました。

すると客の一人が

「では、その矛でその盾を突いたらどうなるのか」

と問われて答えに窮したという故事から出た言葉です。

聖書の中には愛と義の矛盾というものがあります。

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神は義であり、と同時に愛の御方です。

義は縦のラインのイメージで、裁判官が被告に判決を言い渡すイメージです。

愛は横のラインで、相手が自分と同じ位置にいてくれるイメージです。

この縦と横が交差して十字架となります。

罪を決してゆるさない義と、罪ある者をゆるそうとする愛は対立します。

しかしそれは十字架によって解決されるのです。

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聖書は全ての人は神の前で罪人だと言っています。

「義人はいない、ひとりもいない」
(ローマ3:10)

交通違反をしたら反則金を納めなければならないように、罪はその代価を支払って初めて消えるものです。

聖書はそれは命でもって償われるのだと言います。

「罪の支払う報酬は死である」
(ローマ6:23)

従って、人はその罪のために自分の命を差し出さなければなりません。

全人類が死に縛られているとはこういうことです。

しかし、神は愛の方なので、誰一人滅びることを望まず、その罪をゆるそうとされます。

しかしそれでは神の義が立ちません。

一方で神の義を全うしようとすると愛が立たず、愛を貫こうとすると義が立ちません。

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この矛盾を解決されたのがイエス・キリストです。

人は自分一人のためにしか命を支払うことができませんが、イエス・キリストは神の子なので、その命の犠牲は全人類の罪の償いとして十分認められます。

これで神の義が立ちます。

と同時に、キリストが十字架で人間の代わりに罪の代価をご自身の命で支払って下さったことにより、人間の罪は神の前で全く消されてしまいました。

これで神の愛が立ちます。

十字架によって神の愛と義の矛盾が解決されたのです。

人間に残されているのは

「十字架によって自分の罪は赦されているのだ」

とキリストのわざを信じて生きていくことです。

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さて、最初の中国の商人はなぜ矛と盾を売り場に同時に置いていたのでしょう?

もし矛だけにしておいたら「どんな盾も突き通す矛だ!」と強弁して売り抜くことができたでしょう。

盾も同様です。

少なくともお客様から突っ込まれて答えられなくなるという事態にはならなかったはずです。

なぜ両方置いていたのか?

そうなのです。

彼は両方売りたかったのです。

矛盾の背後には必ずその理由があります。

神と人間を同じにしてはいけませんが、神は義と愛の矛盾をキリストの十字架で見事に両立させる道を作られました。

神の中にやましいことは一切ないことを証明し、義の正しい神が正々堂々と人間を愛することを神は強くお望みだったのです。

ですから、私たちがキリストの十字架による罪の赦しを信じることは神の御心です。

神はそうなってほしいと願っておられるのです。

その神の期待を心に受ける今日一日として参りましょう。

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