今日のみ言葉【No.1697】(2018年 1月30日)「 教会とは」
この町には、わたしの民が大ぜいいる
(使徒18:10)
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少し長いですが牧会カウンセリングの教科書の一節を記します。
「教会員と接触している牧師が、日曜日の朝の礼拝に集まった会衆を見る時、多くの人が彼らの生活の中で、重荷と深い傷とをひそかに持っていることを知る」
それは次のような人々だというのです。
「ガール・フレンドが妊娠している男子高校生、前日に奥さんを精神病院に入院させた人、家族に受け入れられない老人、かけごとの誘惑から逃れられずにもがいている人、夫が悲惨な死をとげた若い妻、自分の子供が白血病であることを知った母親、離婚のせとぎわにある若い夫婦、…」
(H.クラインベル著、佐藤陽二訳、『牧会カウンセリングの基礎理論と実際』、聖文舎、P57)
私は神学校の授業でこの本を読んだ際、
「教会とは神の国ではないか。こんなにひどい問題のある人たちがいる場所ではないのではないか」
と不審に思ったことを覚えています。
今ですか?今は、全くこの本に同意します。
私が教会で毎日見ている風景と一致しているからです。
キリストの救いを提供する教会は素晴らしい場所ですが、バラ色の夢しかない花園ではありません。
問題を有する人々がキリストの救いにあずかり、そしてその問題があるがゆえに、真の信仰へと導かれる場所なのです。
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キリストの福音が広まっていく中で、それは港町で大商業都市であったコリントの町まで届きました。
パウロはまずユダヤ人の会堂でイエス・キリストの救いを宣べ伝えましたが、彼らに拒絶され、異邦人への伝道に進みました。
そしてコリントの教会が建つのです。
しかし考えてもみて下さい。
種々雑多な人々が、それぞれ独自の価値観を持って教会に集うのです。
全く神様とも旧約聖書の伝統とも縁がなかった人々ですから、様々なバックグラウンドがあります。
そこに問題が発生しないはずがありません。
また、神に出会う以前から引きずってきた問題もあります。
コリントの教会は最初から問題山積の教会として始まりました。
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しかし神はパウロにこう語っていました。
「この町には、わたしの民が大ぜいいる」
(使徒18:10)
神がそのように語っておられ、それゆえにパウロが伝道を続け、神に呼び集められた民としてコリントの教会があったのです。
ですから、
「この教会は問題があるから神の教会ではない」
とは言えません。
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神はむしろ問題のある人を招いていると聖書には記されています。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」
(マルコ2:17)
この並行箇所でルカはこう記しています。
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
(ルカ5:32)
招かれた罪人はいつまでもそのままではいられません。
必ず悔い改めという自分の生き方の方向転換が迫られます。
それはまじめに生きるというこの世の通りいっぺんの生き方ではありません。
自分の罪が赦されて真っ白な人生を歩んでいくという方向転換です。
人は問題を通してこの道を歩んでいきます。
神はこのように人生の問題をお用いになって、人を悔い改めに導き、キリストの人格に似た神の民へと罪人を変えてくださるのです。
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キリストの福音が宣べ伝えられるところには教会が建ち、そこには問題が満ち溢れます。
神に呼び集められた者として、問題を通して真の神の民となるよう、今日の一日を用いて参りましょう。
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