今日のみ言葉【No.1686】(2018年 1月17日)「 神の真実、人間の不真実」

しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
(ローマ4:5)

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『うつヌケ』といううつ病脱出コミックがあります(田中圭一著、角川書店)。

うつのトンネルを抜け出た人たちの体験談がマンガで描かれているので、あっという間に読み終えることができ、昨年1年間で33万部発行のヒット作品です。

この中で、いかに人の気分が天候・気圧・温度差、日差しの有る無しで左右されているのかが描かれています。

「私の心は自分が思っている以上に単純な作りになっているのだな…」

「不安な日も天気と同じくらいパタパタっと去っていくはず」

「その程度のものなんだ」

あくまでも個人の体験談ですから、参考にはできますが医療とは違います。

しかし、重い気分や憂鬱な感情が意外と簡単な理由で明るい方に変わってしまうとは嬉しい知らせです。

と同時に、そんなに変わりやすい気分屋の人間が永続的信仰を持てるのかどうか心配になります。

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聖書は

「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」
(ローマ4:5)

と高らかに宣言しています。

罪の代償としての命を差し出せない人間の代わりに、イエス・キリストがその命を十字架上で捨てて下さいました。

それが自分のための身代わりであったと信じる時、神はその信じたことを「義」と認めて下さり、罪なき人間として受け入れてくださいます。

これが十字架による救いであり、「信仰によって義とされる(信仰義認)」ということです。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(ローマ3:24)

決して行いによってではありません。

「そうして下さったのだ」と信じることで救われるのです。

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ところで、洗礼の時には「神様を心から信じます」と言っていても、その後、堅かったはずの信仰が薄れる時があります。

気分屋だから…、とまでは言いませんが、人間である限り感情がコロコロと変わるのは当然だからです。

すると、信じている気分の時は救われていて、疑いを持った時は救われていないということになります。

それではならじ、と一生懸命「神様、私はあなたを信じます」と力んで祈って自分を支えようとします。

しかしそれは我力・自力によって信仰を保とうとする行為であり、それでは行いによって救いを得ることになってしまいます。

ですから、自分の真実さではなく、神の真実さによって保証されているのだと、そこは手放し、お任せしなければなりません。

聖書はこう語ります。

「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」
(第2テモテ2:13)

「不真実」とは私たちの思いが右や左に揺れ動き、気分がクルクルと変化し、何が自分の本当の思いなのかわからなくなることです。

しかし、どんなに私たちの気持ちが変わっても、神がなして下さった事実は変わりません。

その神の「真実」が人間の「不真実」を覆い、私たちの信仰を支え続けるのです。

その事実を信じることが聖書が言っている「信仰」です。

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「明日太陽は昇るだろうか」とどんなに疑っても、神様は毎日太陽を昇らせて下さいます。

その神の確かさを信頼して生きる今日として参りましょう。

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