今日のみ言葉【No.1649】(2017年11月16日)「 わたしの戒めを心にとめよ」
わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
(箴言3:1-2)
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時代の進行によって違った意味で使われるものがあります。
たとえば「とても」という語。
一説によれば「到底もう」が短縮されて「とても」となったので、否定的表現を後に続けるのが本来の使い方なのだそうです。
ですから「とても無理だ」が適切な使い方で、「とても良い」は言い間違いとされていました。
しかし今は否定も肯定も関係なく使われます。
イエス・キリストが到来した時代は、神が与えた大切な「律法」が間違った使われ方をしていた時代でした。
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モーセの十戒に代表される神の律法は、本来聖なる良きものです。
新約聖書でパウロはそのことをこう語っています。
「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」
(ローマ7:12)
律法を守ることは私たちの益になるのです。
「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える」
(箴言3:1-2)
祝福となる運命を果たすために制定された律法ですから、それは目的のための一つの手段です。
しかし年月が経つにつれ、律法を守ること自体が目的となり、イエス様時代には律法学者が追加した諸々の規則が山と積まれ、本来の精神が失われていました。
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イエス・キリストは愛と感傷を混同するような方ではありませんから、この事態を「よしよし」となでて終わるようなことをしませんでした。
律法学者やパリサイ人という当時の宗教的指導者を激しく非難し、対決しました。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている」
(マタイ23:25)
清濁併せ呑むのが聖書の愛ではありません。
良いものは良い、悪いものは悪いときっちり区別をつけ、その上で罪の代償を支払い、うやむやにしない。
それがキリストの愛であり、罪の代償を払う苦しみをご自分が十字架の上で引き受けられたのです。
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キリストの愛と厳しさに思いを馳せる今日として参りましょう。
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