今日のみ言葉【No.1528】(2017年 5月13日) 081 「イエスを捕らえに来た人々」(3)

シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。
(ヨハネ18:10-11)

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神学校の教授が

「本を書くと必ず何かを失うんだよ。今回は歯が1本抜けた」

と事も無げに言っておられたのを聞いて、私は震え上がった思い出があります。

本を出版するというのは相当な激務なのだ、と今回私は身をもって知らされました。

原稿作成のためにパソコンのキーボードを打ち、マウスを使うので、結果的に腕を酷使したようです。

テニス肘のような痛みが両腕に現れ、握手をするのにもビリッと痛みが走るようになりました。現在整形外科で治療中です。

また、締切を守ることに神経を集中させたため、周囲に気が回らず、身体をあちこちにぶつけ、不注意で鼻の頭に火傷をしてしまいました。ここ1ヶ月はサーカスのピエロのような鼻で人前に出ております。

しかしそれを不幸だとは思いません。

進んで犠牲を払って人を愛するとはこういうことなのだ、と納得しながら痛みを味わっているからです。

キリストの愛とはこういうことなのか、と、その万分の一でも味わわせていただいている今日この頃です。

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イエス・キリストは誰をも傷つけようとしない愛の方です。

まず8節で

「わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」

と弟子たちがご自分の逮捕に巻き込まれないように配慮しておられます。

そして、身内の者だけ可愛がるのではなく、捕らえに来た側をも愛されました。

それは大祭司の僕マルコスの右耳を癒やされたことです。

「シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。」
(ヨハネ18:10)

ペテロはストレスが最高潮に高まり、逆上してしまったのでしょう、取り返しのつかない傷を相手に負わせてしまいました。

ルカによる福音書ではそのいきさつがこう記録されています。

「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、『主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか』と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、『それだけでやめなさい』。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。」
(ルカ22:49-51)

マルコスという人の右耳は切り落とされてしまいましたが、イエス様はその場で癒して下さいました。

イエス様にとって敵も味方もありません。

全ての人は神の御前で失われつつある魂であり、その人たちのために、神の御心に従って十字架につくことを選び取っておられたからです。

イエス・キリストを捕らえに来た兵士たちは、彼らが知らない間にイエス様から愛されていたのです。

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さて、このマルコスという癒やしの奇跡を体験した人はその後どうなったでしょう?

実名が記されているのですから、きっとその後クリスチャンになったのだという説があります。

もうひとつはそれと反対で、この後彼の名前は一切聖書に出て来ず、初期キリスト教文書の中にも彼の存在は現れないことから、マルコスはクリスチャンにはならなかったという説があります。

どちらが正しいかは判断できません。

しかし私たちがわかることは、神の恵みと愛の中にいながら、人はそれを知らないでいるということです。

そしてその恵みを味わった後でも、神を信じる信じないは全くその人の決断による、ということです。

奇跡を体験したから人は必ず神を信じるとは限りませんし、神様も「そこまでやってあげたのだから、私の存在を信じなさい」と強制することはなさいません。

人は神の愛を受け入れることも捨てることも自由にできます。

私たちの態度がどうであれ、キリストが私たちを愛されることに変わりはありません。

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イエス・キリストは、自分の全てを捧げてあなたを愛するお方です。

この方が愛する方向へ、自分も一歩足を進めていく今日として参りましょう。

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