今日のみ言葉【No.1556】(2017年 6月29日) 090 「復活のイエスに会った弟子たち」(1)
その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、
(ヨハネ20:19)
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72時間という数字は非常に大事な数字です。
災害時や遭難時、72時間を経過した後は救出率がグッと下がるからです。
そして現代日本では、この72時間=3日間を持ちこたえられれば、必ずどこかからの救出チームに出会えることがわかっています。
最後の晩餐から72時間後、弟子たちは復活のキリストと出会います。
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現代の私たちの曜日感覚でイエス様の受難を表すとこうなります。
●木曜日の夕方に最後の晩餐。その後、ゲッセマネの園で逮捕される。
●金曜日の午後3時に十字架上で死なれ、日没前に墓に葬られる。
●土曜日は安息日なので記録なし。
●日曜日の早朝、復活され、まずマグダラのマリヤに、そして夕方、弟子たちの前に現れる。
最後の晩餐からから数えて丸3日間、激動の日々でした。
イエス様を見捨てて逃げ去った弟子たちはどのように過ごしていたかというと、
「ユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめている」
(ヨハネ20:19)
という状態でした。
ここは最後の晩餐をしたのと同じ二階座敷だったようです。
ここしか逃げる場所がなかったのです。
誰にも見つからないように、彼らは木曜日の夜以来、息を潜めてずっと閉じこもっていました。
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彼らは恐れと同時に自責の念を持っていたであろうことは容易に想像できます。
自分たちの先生を見捨て、置き去りにして逃げてきてしまったのですから…。
それは江戸時代のキリシタン弾圧に逆らえず、踏絵を踏んだ当時の信者たちと同じ気持ちだったのではないでしょうか?
そこに復活の体を持ったイエス様が超自然的な形で彼らの前に現れました。
私ならまずドキッとします。
そして、決して目を合わせず、自分には何も言わないで欲しいと思いながら緊張して立っているでしょう。
「私は悪いことをした」と罪責感にとらわれ、ゆるされるはずがないと自分を責めているからです。
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自分を責める人は、相手からまだ何も言われていないのに、頭の中で責めの言葉を作り出します。
「お前はあの時どうしたんだ?」
「あの時約束した言葉は嘘だったのか?」
きっとイエス様からそのような言葉を聞かされるに違いない。
約束をしたのにそれを果たすことをせず、裏切った自分を先に責めることによって罰します。
そして自分を責め抜いた挙句、疲れ果てて何もできなくなったら自分を解放できます。
自分をゆるすというより、忘れるようにしてうやむやにするのです。
記憶を無くして罪責感を処理するパターンですから、将来また同じことを繰り返すだろうということはお分かりでしょう。
このような自分の殻に閉じこもって自分を責める人に対して、イエス様はどのような言葉をかけられたのでしょうか?
それは次回に譲ります。
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自責の念を持って苦しんでいる人をイエス様は見捨てません。
必ず神様の方から声をかけられることを信じ、その時を待ち望んで今日という一日を過ごして参りましょう。
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