今日のみ言葉【No.1514】(2017年 4月10日) 077 「裏切りを予告された弟子たち」(1)
弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。
(ヨハネ13:22)
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ある仏教のお坊さんの話です。
大晦日の除夜の鐘は、人にまとわりつく百八つの煩悩を振り払うためのものと言われますが、このお坊さんが言うには、若い頃は、異性、つまり性欲が修行の最大の妨げだったそうです。
中年になると、お金や物欲が道を踏み外させようと強い力をもって迫ってきました。
今や70をとうに越し、老年に入り、何の欲得もなくなり、全く平安な境地になったかというとそうではなく、これまで以上の強い煩悩にさらされているといいます。
それは嫉妬です。
「同期のあの人は自分よりも大きな寺に入っている」
「自分より若いのに高い位にいる」
生々しい話ですが、これは人間の本当の姿であり、その自分をごまかさずに挑戦していらっしゃるからこそ、何のわだかまりもなくポロッと話をしてくれたのでしょう。
キリストの弟子たちは、イエス様が裏切りの予告をされた時に、自分たちの本性を見せつけられました。
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イエス様は弟子たちに、この中の一人が自分を裏切ることを告げています。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」
(ヨハネ13:21)
それを告げられた弟子たちの反応はこうでした。
「弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。」
(ヨハネ13:22)
彼らは「互いに顔を見合わせた」とあります。
そこには彼らのどのような心が現れているか、考えたことがありますか?
どんなときに顔を見合わせるでしょうか?
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弟子たちが顔を見合わせながら心の中で思っていたことは、
「誰?まさかこの人が?」
というものだったでしょう。
彼らの中に本物の信頼関係がまだ養われていなかったのです。
彼らの実体は、お互いを信頼し仕え合うなどというものとは程遠く、この夕食の席で自分のほうが上だということを議論しているような程度でした。
「それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。」
(ルカ22:24)
誰か一人でも、顔を見合わせることなく、その顔を真っ直ぐイエス様に向けて、
「先生、何を言っておられるのですか。ここにあなたを裏切る者などおりません。私は神かけて信じております。」
という人はいたでしょうか?
弟子たちの間に信頼関係があれば、こういう言葉が出てきてもおかしくありません。
しかし、いませんでした。
「互に顔を見合わせた」
(ヨハネ13:22)
という状況は、弟子たちが聖人などとはとても言えない、まことに泥臭く、自分の欲得最優先の人たちであったことを示しています。
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私はこの個所を読むと、ホッとします。
私も同じだからです。
弟子たちが
「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか」
(ルカ22:24)
と他人と比較して自分の位置を確認するのに躍起になっているということは、人間同士の横の関係のみで生きているということで、神と自分という縦の関係で得られる絶対的存在感が乏しいということを表しています。
私もそれをひしひしと感じます。
神という絶対的存在を土台として生きる感覚が薄れ、いつの間にか自分の力を土台として生き始め、やがて我力の危うさを感じだすと、人に自分を支えてもらおうとする自分がいます。
「私って、これでいいのかなあ?ダメだよね、こんなんじゃ…」
このように言って、誰かに
「大丈夫だよ。あなたはちゃんとやれる人だよ」
と言ってもらってホッとしようとします。
ところが、そう言ってくれない人もいます。
「やっと気づいたかい?今まで我慢して言わなかったけど、あんた、ひどいもんだったよ。でも、ここがスタート。ここから努力し頑張ればいいんだ!」
と最後にちょっと励ましの言葉を入れてもらっても、初めの言葉のほうで頭がいっぱいになり、せっかく親切で言ってくれたのに、逆にその人を恨みます。
神との縦の関係がしっかりしていないからです。
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このような私たちが愛されているということを知りましょう。
もっと言えば、このような私たちだからこそ、キリストは命を捨てて愛されるのです。
神との関係を確かめる今日となりますように…。
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