今日のみ言葉【No.1515】(2017年 4月11日) 077 「裏切りを予告された弟子たち」(2)
そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
(ヨハネ13:24)
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リンゴ農家の方が、摘果した小さいリンゴをひと箱持って来て下さいました。
可愛らしい、小さな緑のリンゴたちです。
「オブジェにどうぞ」「飾りに使って下さい」
タダなのに誰も手にとってくれません。
ところが、そこにいた一人の人のつぶやきが、状況をガラッと変えました。
「これは仏様にいい」
つまり、家にある仏壇に飾るのにちょうどよい。季節感があるし、一ヶ月はもつ、ということです。
その一言で摘果リンゴを持って行く人が急に増え、箱はアッという間に空箱になってしまいました。
人の本音は隠されていて見えないものです。
しかし、それが見出され、そこにピタリと手が触れられれば、今まで滞っていたものが勢いをつけて動き出していきます。
弟子たちの本当の姿が現されるのは、それを責めたり裁くためではなく、祝福の基となるため、どうしても通過しなければならない地点だからなのです。
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ペテロはイエス様にストレートに
「先生、この中に裏切り者がいるとおっしゃいましたが、それは誰なのですか?私にだけは教えて下さい」
とは言いませんでした。
彼はイエス様の一番近くにいたヨハネに
「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」
(ヨハネ13:24)
と合図をしました。
この「合図をする」という言葉はギリシャ語で「νευω」(ニューオー)と言い、元々は「うなずく」という意味を表します。
この語は新約聖書で2回だけ使われている言葉です。
ではもう1個所はというと、
「そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。」
(使徒24:10)
というところで、権力者の総督ペリクスの動作に対して使われています。
ですからペテロはヨハネに対して、目配せしたのではなく、また、手話を使ったのでもなく、彼を「あごで使った」という情景が浮かんできます。
ペテロは漁師のリーダー格でしたし、イエス様の一番弟子だと自負していたので、そのような上から目線の人への接し方をしていたことが容易に想像できます。
ペテロの隠れた傲慢さ、そして、イエス様から足を洗ってもらい、皆の中で一番下のしもべとして仕えることを教わったばかりなのに、全くそのことがわからず、何も変わっていない姿が見えてきます。
一体これは誰の姿でしょう?
はからずも、それは私たちの姿なのです。
この自分の本音を知らないうちは、私たちの人生は本格的に始動しませんし、イエス様も私たちの人生に介入することはなさいません。
自分の罪を知り、イエス・キリストを罪からの救い主と受け入れた時から、神が私たち一人々々のために意図していた神のルートをたどる人生が進んでいくのです。
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そこから先の神に導かれる人生は、車に新たにカーナビを入れ、それに従って進むようなものです。
カーナビを使いだすと思わぬ指示を聞かされることがあります。
自分の頭で地図を描き、確認し、納得して進んでいた昔の時代は、今自分がどこにいるのか確かな実感があったものです。
ところが、カーナビに頼ると、自分がどこにいるのかあまり実感できません。
どこに進んでいるのか全然わからず、何でこんな細い道を、人の通らない道を、裏道を行くのかわからず、不本意なままでとりあえず連れて行かれます。
神の導きとはそういうものです。
導かれている時は、自分の人生を生きている気がしないかもしれません。
しかし、後になって、「あ、そうだったのか。これが最善、安全であり、迷子にならずに行く道だったのだ」とわかる人生となるのです。
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自分の本当の姿が知らされる時は、辛かったり、目を背けて見ないようにしたくなるかもしれません。
しかし、それを認めて、キリストのゆるしを得て生きる先には、神によって進められていく人生があります。
ありのままの自分で良いと信じ、キリスト共に生きる今日として参りましょう。
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