今日のみ言葉(2011年5月12日)【No.53】

2012年1月27日

「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」
(詩篇 23:3)

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傲慢な人は自分が傲慢であることがわかりません。これが傲慢な人の致命的欠点です。傲慢な人は例外なく、自分は正しいことを行っている、と思いこんでいます。そして、「周りの人からの理解が足りない中でも私は頑張っているし、むしろ周囲の人間の益になるように進んで犠牲になっているのだ」と、正義感と犠牲者精神に満ちあふれていますから、容易なことではそれを止められません。

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傲慢な人が止まる時は、自分以上に傲慢な人に出会った時です。つまり力負けをするのです。敗北して初めて止まります。
もう一つは、傲慢である必要が無くなった時です。それは謙遜な人に出会った時です。自分が上であることを確認しなくてよいので、傲慢でいる必要がありません。謙遜の極みであるイエス・キリストに出会うと人間が変えられる、というのはこういう事です。

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今日の聖句は、私たちの魂をいきかえらせて下さるイエス・キリストのことを言っています。同じ詩篇23篇の1節には、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と、キリストを羊飼いにたとえています。
この羊飼いの下にいれば、乏しさも飢え渇きも感じることはありません。なぜなら、良い羊飼いは羊のために命を捨て、その命を与えてくれるからです。

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ある神学校の校長が夜な夜な神学生がラーメン屋へ行くという噂を耳にし、門限の過ぎた寮の庭を歩いていると、高い塀の下に踏み台が置かれてあるのを見つけました。

これを足場にして塀を乗り越えたに違いない。校長先生はその踏み台を取り除いてから、「待てよ、帰ってくる連中は踏み台があるものと思って飛び降りて、足を折ることがあっては…」と考えている最中に、ドヤドヤと数人が帰ってくる音が聞こえてきました。踏み台を持ってくる暇はありません。やむを得ず自らうづくまって先生は踏み台の代わりになりました。

最初の一人がそこを降りて、「おい、踏み台が動くようだぞ」と言いました。次のが、「何だか柔らかいぞ」。3人目は勢いよく飛び降りたので、思わず踏み台から「ウム!」という声が聞こえてきました。

このことを通して、将来の牧師候補生たちが何を学んだか。書物以上のことを得、彼らの人生に大きな影響が与えられたことは言うまでもありません。
今日、人々の痛みを共に担い、人々の踏み台となっておられる先生方の実話です。

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神はあなたの踏み台となられ、あなたに活力を与えられる神です。
今日もその神に祈り、魂を生き返らせていただき、新たな歩みを始めて参りましょう。

初期,御言葉

Posted by maruyama