今日のみ言葉(2011年5月11日)【No.52】

2012年1月27日

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』。」(マルコ10:27)
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「神にはできる」という揺るぎない確信に満たされる前に、「人にはできない」という局面を通らなければなりません。自分の限界が神の可能性のスタートラインだからです。人間は自分の限界を肌身で知り、自分の力に見切りをつけなければ神への信頼には移れません。いざ自分を見捨てるとなると、恐ろしく自分に執着することはその時にならないとわからないほどです。

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「人にはできない」を具体的に言うと、「わたしにはできない」「私には無理だった」「あれほど神様を信じてやったのに、できなかった」という敗北と挫折の体験を味わい、呼べども叫べどもどこからも助けが来ない八方塞がりの中、「私の人生に何の意味があったのか」と感じることなのです。

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聖書に登場する人物の中で神に用いられた人は皆この「砕かれ体験」を通りました。

モーセは自分の力でイスラエルの民を解放しようとし、イスラエルを虐げるエジプトの役人を殺してしまいました。彼はエジプト王家の息子という身分を捨てて荒野に逃げました。神に出会うのは、その40年後、一介の羊飼いとして人生を終えようとする80才の時です。

ヤコブはその名の通り、「押しのける者」として自分の人生を思いのままに送りました。やがて裕福になったヤコブは、自分が昔したことで兄エサウに恨まれていると思いこみ、妻子を置き去りにして逃走します。しかしその途中、神の御使いに出会い、腿のつがいを外され逃げることができなくなります。彼の透徹した霊性が発揮されるのはこの時からです。

イサクは少年の早い時期に砕かれました。父アブラハムが「一人息子のイサクを神への犠牲として捧げよ」と天からの啓示を受けました。彼はその通りにたきぎの上に乗せられ、命が取られる寸前まで行きました。人生の早い時期に自分の限りを身をもって体験したイサクのその後の生涯は非常に穏やかなものでした。

ペテロは「たとい死ねと言われてもあなたについて行きます」とイエス様に言いましたが、イエス様が捕らえられ、自分との関係を疑われた時、「あの人と私は何の関係もない」と裏切ってしまいました。自分はもうダメだと思い、漁師に戻ろうと漁をしている時、復活のイエスに出会い、「わたしの羊を飼いなさい」と新たな使命を与えられました。ペテロは後に逆さ十字架で処刑されるまで福音を伝えました。

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自分が砕かれている最中は、何が起きているのかわからないものです。時には、「自力で神に信頼しようとする我力」もそのターゲットになり、あっけなく砕かれます。自分で持つ信仰ではなく、神から与えられる信仰を持つことができるようになるためです。

すべては「人にはできない」ことがわかるためです。そこから「神にはできる。神はなんでもできるからである」という世界に既に入れられていたことに気づくのです。

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神の可能性に信頼して今日の一日を過ごして参りましょう。

初期,御言葉

Posted by maruyama