今日のみ言葉【No.1299】(2016年 6月 2日) 006 「イエスの両親」(1)

「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」
(ルカ2:49)

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12年前の2004年(平成16年)、何があったか覚えておられますか?

一万円札が福沢諭吉に変わった年です。新潟中越地震が起き、鳥インフルエンザが流行り、豹柄ファッションがブレイクしたのがこの年です。

12年前のあなたはどんな考えを持っていたでしょうか?

友人に対して、仕事に対して、将来に対して、家族・子どもに対して…。

12年という時間には「あの時と今とでは、自分は別人だな」と感じてもおかしくないほどの月日の重みがあります。

ヨセフとマリヤも、クリスマスの夜のイエス様との第1の出会いの後、12年を経ると、考えが変わっていました。

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12年前の不思議な誕生の出来事の後、ヨセフとマリヤは親としてイエス様を育てました。

イエス様はこの間、全く普通の子どもとして育ったようです。

その証拠に12年後、過越の祭りで宮に行った際、ヨセフとマリヤはイエス様を神の子として特別な態度で接していたというより、普通の子に対する叱り方をしているからです。

それは帰り道ではぐれてしまった時の言葉です。

「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」
(ルカ2:48)

3日間探し回り、ようやく宮の中で「わが子イエス」を見つけたお母さん(マリヤ)としては、ホッと安心したのと同時に、怒りも湧いてきたのでしょう。

ところがそれに対するイエス様の答えは意外なものでした。

「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」
(ルカ2:49)

イエス様は今エルサレムの神殿にいるのに、

「自分の父の家にいる」

と言いました。

ヨセフとマリヤにとっては「わが子イエス」なのですから、

「両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。」
(ルカ2:50)

となるのも当然です。

しかしこれはイエス様との第2の出会いだったのです。

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ユダヤでは13歳で成人式を迎え、大人として見なされます。

つまり、そこからは厳格に律法の全てを守ることが要求されるのです。

ですからその前の1年間、父親は準備のための教育をしなければなりません。

そして旧約聖書の中心である、あのモーセの時代の過越の物語を語り聞かせ、その意味を子どもに伝える義務があったのです。

ヨセフとマリヤにとっては、子どもを一人前の大人としなければならない重要な時期だったのですから、意識としてはどうしても

「まだ子ども」

「あれもこれも身につけなければならない未熟な人間」

という思いが強かったのでしょう。

「聖霊によって身ごもった神の子イエス」

という意識は薄れていたものと考えられます。

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私たち人間はそのようなものなのです。

日常生活にさしたる問題もなく、毎日が昨日と同じように繰り返され、今日生きているのが当たり前だとも感じないほどの日々を送っていると、神様の存在を意識するのが薄れていくのは、ヨセフとマリヤ同様、同じです。

しかしその日常に、ある時、「喪失」という問題が起こされるのです。

彼らにとっては、いつも当たり前のように目の前にいた「わが子イエス」が見えなくなった、という出来事です。

私たちも、時に、あるはずのものを見失います。

手を伸ばせばあったはずのものが見えなくなり、暖かいはずの人間関係が消え、やる気満々の情熱はいつの間にか冷めている現実に気がつくのです。

しかし幸いなことに、その現状のまっただ中に、

「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」
(ルカ2:49)

とおっしゃるイエス様が立っておられるのです。

父なる神様としっかり結びついておられる神の子イエスという存在。

そのイエス様に私たち自身が見出されることが、確かな人生の原点なのです。

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私たちがイエス様を見出すのではなく、私たちがイエス様に見出されることが大切なのです。

神の宮の只中に私たち自身も身を移し、神と共なる一日を今日も歩んで参りましょう。

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