今日のみ言葉【No.1263】(2016年 4月 9日)

あなたの手を弱々しくたれるな。
(ゼパニヤ3:16)

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「首を長くする」とは妖怪ろくろ首のことではありません。何かを楽しみにして待つことです。

しかし本当に首が伸びるような感じで私たちは好きなものを待ちます。

このように、体の一部を使って表現する日本語は他にもたくさんあります。

たとえば、「へそを曲げる」とは機嫌をそこねるという意味ですが、実際におへそが曲がるはずはありません。

「顔から火が出る」とは、恥ずかしい思いをした時の表現ですが、顔が燃えているように熱いという感覚が伝わってきます。

がっかりしたことを表す「肩を落とす」という表現も、肩がポロッと地面に落ちるわけではありませんが、失望した時の人の様子が目に見えるようなフレーズです。

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今日の聖句である

「あなたの手を弱々しくたれるな。」
(ゼパニヤ3:16)

も、「肩を落とす」と同様の表現方法で、手を弱々しくたれさせる人の姿から、がっかりして気力を失った状態が想像できます。

しかし、そうするな、と聖書は言うのです。

新共同訳聖書では「力なく手を垂れるな」、新改訳聖書では「気力を失うな」と訳されています。

なぜ肩を落とさず、気力を失わないようにしなければならないのでしょうか?

それは、神は裁きの後、悔い改める者に「回復」を約束しておられるからです。

「その時、わたしはあなたがたを連れかえる。わたしがあなたがたを集めるとき、わたしがあなたがたの目の前に、あなたがたの幸福を回復するとき、地のすべての民の中で、あなたがたに名を得させ、誉を得させる」
(ゼパニヤ3:20)

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自分の罪に気づき、キリストによる罪のゆるしにすがりつく者は、必ず救いにあずかります。

悔い改めとは神に方向転換することです。

それは、太陽に背を向けていた状態からクルッと180度転回して太陽に顔を向けるようなものです。

そうすれば、自分の暗い影しか見えなかった今までの人生が、今度は日差しの明るさに目も眩むほどの人生になります。

たとえ一歩も正しい方向に進み出さなくとも良いのです。

太陽に向き直し、その輝きを体験した者は、その方向に自分から歩み出したくなります。

そこからが本格的な「神と共なる人生」の始まりです。

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教会を何十年も支え続け、94歳で天に召されたG姉は強い信仰の持ち主でした。

しかし、亡くなる直前に訪問した牧師の前で、G姉はこう語られました。

「先生、私は弱い人間で、不安でいっぱいなんですよ。だからこそ神様に祈らずにはいられないし、イエス様に頼るしかないんです。だから信仰を持ってここまで歩いてこれたんですよ。」

そばに一緒にいた娘さんも、今まで聞いたこともないお母さんの心の内でした。

「母の強い信仰の土台は弱さだったのだ」と娘さんはその時初めて知ったと言います。

G姉は翌日入院し、病院のベッドに横になると同時に、

「天のお父様、この地上に生かしていただいたことを心から感謝いたします。そして、私の人生を信仰を持って歩ませていただいたことを感謝します。この人生を終えて、私は天国に帰ります。」

と祈られました。

力も意識もどんどんなくなっていく時、それでもしっかりと天を見上げ、イエス様と共なっていることがはっきりとわかる姿でした。

G姉は次の日からただただ眠るばかりの日々となり、10日後に願い望んでいた天国に凱旋していかれました。

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肩をガックリと落とし、手を弱々しく垂れたままで神に向き直しましょう。

その弱さを強い信仰の土台として神は用いてくださいます。

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