今日のみ言葉【No.1207】(2016年 1月14日)

たといそうでなくても、
(ダニエル3:18)

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ダニエル書第3章は、信仰を守り通した結果、見事に救われたお話です。

金の像を拝めと命令したネブカデネザル王の前に、

「ユダヤ人シャデラク、メシャクおよびアベデネゴがおります。王よ、この人々はあなたを尊ばず、あなたの神々にも仕えず、あなたの立てられた金の像をも拝もうとしません」
(ダニエル3:12)

とカルデヤびとらが告げ口してきました。

それを聞いた王は猛烈に怒り、この3人を火の燃える炉の中に投げ込めと命じます。

しかし、神に守られたシャデラク、メシャク、アベデネゴは何の問題もなく炉の中で過ごし、焼け焦げた匂いが付くこともなく炉から出てきます。

王は驚嘆し、

「彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとした」
(ダニエル3:28)

と言わざるを得ませんでした。

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聖書の中でこのような奇跡的な話を読む時、

「本当にそんなことがあったのだろうか?」

と考えだすと、本当に聖書が伝えたいことを見失ってしまいます。

聖書は書いてある通り、まず、ありのまま読むことが良いのです。

次に、このようなことがあったとして、読者に何を伝えたいのか、と、その中心的メッセージを汲み取るようにしていくことが、最も適切な聖書の読み方です。

なぜなら、聖書は科学的真理を伝えることを第一義としているのではなく、読む者が神と出会えるように配慮して書かれているからです。

ヨハネによる福音書は明確にそのことを表しています。

「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」
(ヨハネ20:31)

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シャデラク、メシャク、アベデネゴは偶像を拝まず、信仰を守り通しました。

しかし、注目すべき点は、彼らが

「神に対する信仰を持っていれば、どんな時でも我らの命は守られる」

とは思っていなかったということです。

それが今日の聖句の、

「たといそうでなくても」
(ダニエル3:18)

という一節が示しています。

火の中に投げ込まれても、神が私たちを救い出して下さるという信頼は変わりません。

しかし、

「たといそうでなくても」

つまり、自分が考えているような神の救いが与えられず、最悪の場面が目の前に展開されても、ということです。

そうであったとしても、神への忠実さに徹する、というのがシャデラク、メシャク、アベデネゴの生きる姿勢でした。

自分を中心とせず、神を中心とすること。

神に主権を明け渡し、神に忠実に生きること。

これが今日の聖書個所から汲み取るべきメッセージです。

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5000円札の人物像に採用されたことのある新渡戸稲造は、平和を願う日本人クリスチャンとして国際連盟で大きな働きをしました。

しかし彼の願いと働きも空しく、昭和8年に日本は中国に侵攻し、国際連盟を脱退。

同年10月に軍国主義が台頭する日本の将来を懸念しながら、彼は天に召されました。

新渡戸稲造の願いは叶わず、その後、日本は戦争に邁進し、敗戦となったことは歴史的事実です。

しかし、神中心に生きる彼の生き方と、それを次世代に伝えようとした働きは実を結びました。

平和教育を少女の時から受ければ、彼女らが母になった時に、その子供たちに更に平和を伝えていくだろうと考えた新渡戸は、女子教育に力を尽くしていたのです。

新渡戸稲造の影響を受け、津田梅子は津田塾大学を、河井道は恵泉女学園を、安井てつは東京女子大学を創設していきました。

神中心に生き、神に主権を明け渡し、たとえ自分の願いそのものが叶わずとも、神の願いを成就させる器として用いてくださいという祈りは、必ず聞かれるのです。

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今日も主の御心を歩ませていただく一日として参りましょう。

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