今日のみ言葉【No.1169】(2015年10月31日)

「神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。」(新改訳)
(エゼキエル14:6)

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私の神学校の卒業論文の題は、『悔い改めの聖書的意味』です。

罪を「悔い」ということは分かりますが、その後の「改め」という行動は自分の力ではできないので神を信じたはずなのに、それを自分の力でやらなければならないのか、という疑問から生まれた論文でした。

私なりに調べた結果は、自分の今までの常識を覆すものでした。

悔い改めをとことん極めたエッスンスには、涙も鼻水も流す必要はありません。

何と行動を変えることも条件ではありません。

純粋な悔い改めを究極の一滴に絞りあげると、それは、

「考えを変える」

「思いの方向転換」

「神に向き直る」

ということでした。

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エゼキエル書第14章には、表立っての偶像は持っていないが、心に「自分の願望」という偶像を持っている人たちがやって来たことが記されています。

彼らは、「故国への早期帰還」という自分の願望を手放さず、その成就だけを願ってエゼキエルのもとに来たのです。

たとえて言えば、手術が必要な患者が医者のところに来て、「明日退院できるように診断書を書いて下さい」というようなものです。

エゼキエルを通して語られる神の言葉は、

「あなたがたの顔を、そのすべての憎むべきものからそむけよ。」
(エゼキエル14:6)

です。

そして、そむけた先に新たに何を見るかが肝心です。

そうです、神の御顔を見るのです。

「無事退院」という最終的場面を見るためには、「明日退院」という自分の偶像を捨てなければなりません。

そして、「手術」という医師の計画を受け入れ、従うのです。

悔い改めとは、思いを変えることです。

自分の思いの通りにやれる、という考えから、神の思いの通りにお任せする、という考えに方向転換するのです。

その先にある神の御顔を発見し、神の御手のわざを見させていただくこと。

それが悔い改めの決心をした人に与えられている恵みです。

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私はうまく行かないことがあると、いつまでもネチネチと自分を責める方です。

何年も前の失敗をふと思い出し、「はぁ〜」とため息をつきながら、「主よ!」と叫ぶことがよくあります。

しかし、自分を許す達人レベルのクリスチャンもいらっしゃいます。

「神様、どうもすいません!」

とひとこと言ったきり、後はスパッとその失敗やヘマを忘れてしまうのです。

私は

「あなたもクリスチャンなんだから、もう少し自分の罪に苦しむ時間を取ったらどうか…」

などと見当違いな考えを持つのですが、どちらの結果が良いかは一目瞭然です。

周囲の人の評価は、

「あの人は切り替えがいい」

「ストレスマネジメントがうまい」

という好評価です。

自分を罰することは、イエス様がお望みになりません。

なぜなら、イエス様が十字架で私たちの罪の罰をすべて負ってくださったからです。

もう罪がないところで自分を更に罰することは愚かであり、更に罪を加えることにもなりかねません。

思いを変え、方向転換をし、神の方向に向き直すこと。

自分を責めずに、ゆるす方向へと一歩踏み出すことが悔い改めのスタートです。

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新たな「悔い改め」へと進んで参りましょう。

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