今日のみ言葉【No.1170】(2015年11月 2日)

森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。
(エゼキエル15:2)

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「猫よけにはこれが一番効きますよ。」

私が野良猫の被害を口にしたら、翌日、教会員の方がぶどうの枯れ枝をひと束持ってきて下さいました。

剪定された枝は捨てるだけになるので、お隣りの農家の方からもらってきたというのです。

「これを猫の通り道にばらまいて下さい。猫はこういうチクチクイガイガのものを嫌がるので、避けて通るようになります。」

やってみたら効果てきめんでした。

ぶどうの枝は曲がりくねった細い枝なので、燃やす以外何の用途もありません。

そのようになってしまったのがエゼキエル時代のイスラエルでした。

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エゼキエルの前のイザヤ・エレミヤの時代にはまだ悔い改めのチャンスが残されていました。

「わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。」
(イザヤ5:4)

「わたしはあなたを、まったく良い種のすぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか。」
(エレミヤ2:21)

しかし、エゼキエルの時代には裁きが確定してしまったので、ぶどうの木は切り捨てられてしまいました。

「森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。」
(エゼキエル15:2)

しかも、中途半端に燃えてしまった焼け屑なので、もはや燃料にもならないとまで書かれています。

「見よ、これは完全な時でも、なんの用をもなさない。まして火がこれを焼き、これをこがした時には、なんの役に立つだろうか。」
(エゼキエル15:5)

イエス様がぶどうの枝の話をされた時、

「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」
(ヨハネ15:6)

と語られたのは、このエゼキエルの時代のイスラエルを背景としています。

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ぶどうの枝は実を結ぶことで存在の意義があります。

イエス・キリストは、

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
(ヨハネ15:5)

と語られました。

私たちは、ぶどうの木につながる枝なのです。

ただし、私たちが自分の努力で実を結ぶのではない、とイエス様は語っておられます。

実を結ぶためにはこの一事に努めよ、と続けて記されています。

「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」
(ヨハネ15:5)

キリストとつながっていることが実を豊かに結ぶ唯一の道なのです。

「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」
(ヨハネ15:5)

キリストとつながるとは、心霊現象を体験したり、特別な修行をすることではなく、御言葉を心に留めることです。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、」
(ヨハネ15:7)

私たちが御言葉を育てて実を結ばせるのではなく、命ある御言葉が私たちを育てて実を結ばせて下さるのです。

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私はクリスチャンになってからお金の心配をしたことがありません。

これからもないでしょう。

お金持ちだからというわけではなく、むしろ人一倍、お金が無くなることへの恐怖心が植え付けられているのを自覚しています。

幼い時から両親がいつも

「金無い、金無い。」

と言っていたからです。

しかしクリスチャンになってからは、違う言葉が心の中を占めるようになりました。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」
(詩篇23:1)

これは教会の礼拝堂の正面に掲げられている木彫の御言葉です。

私はこれを理解したり信じたり、を越えて、空気のように全く意識しないものとして心に入っています。

「乏しいことがないのだから大丈夫なのだ」

と言い聞かせたりしないほど、意識も全くしないくらいに入ってしまいました。

ですから、

「ああ、そう言えばそういう御言葉がありましたね。それが何か?」

という感じなのです。

神様はこれまでも乏しくない生活をさせて下さいました。これからもそうでしょう。

私の努力でなく、御言葉が命となって支えてくださっているのです。

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キリストにつながり、御言葉を心に留める生活を送る今日として参りましょう。

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