今日のみ言葉【No.1455】(2017年 1月21日) 059 「エマオ途上の二人の弟子たち」(2)
語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
(ルカ24:15)
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今日公開の映画『沈黙−サイレンス−』(原作:遠藤周作)でキチジロー役を演じた窪塚洋介さんがインタビューにこう答えています。
「すべてのことは伏線で、報われた気がしています。(神は)沈黙してるけど、計らってはくれてるのかなと」
俳優としての不遇期を過ごした彼は、この作品に相当の手応えを感じているようです。
窪塚さんはクリスチャンではありませんが、何も語らずとも共におられ、配慮されている神の存在をなんとなく感じているような口ぶりです。
●映画『沈黙−サイレンス−』(本予告)
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イエス・キリストが、希望を失った人に対して取る最初の行動は、近づいて共に歩くということです。
「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」
(ルカ24:15)
この段階で人は「イエス様が近寄って来られた」などと意識しません。
自分のことで手一杯であり、心の中の重荷を吐き出さなければおれない状態だからです。
ですからこの時期、外部からの「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」という援助の言葉は一切入って来ません。
旧約聖書のハンナのように、ただただ自分の思いを話すだけです。
「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。」
(サムエル記上1:15)
イエス様はこのような状況にいる私たちに対して、ご自身から近づいて来られ、そして何も言わずに寄り添い、今も一緒に歩いておられます。
もう既に、そこにおいて心の癒しは始められているのです。
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これは私の個人的感想ですが、今まで会った超有名カウンセラーの先生方の第一印象は、
「ん?なんや、このオッチャン、大したことないなー」
という感じです。
「あの先生は自分の気配を消しておられたのだ」
とわかるのは、何十年もたってからです。
私は自分を防御する必要がないので、相手を見くびって、何でもかんでも、とうとうと喋っていました。
何を言ってもやっつけられないのは相当気分がいいものです。
最後に「実はここがあなたの欠点です!」と鋭く指摘され、バッサリ斬られて終わる…、などということもなく、あっさり規定時間で終了です。
しかしカウンセリング直後から、「あそこはああやればいいんだな」と自分で問題に答を見出している私がいます。
また、余計なことに手を出して問題を作り出していた自分だったはずが、その出す手がスッパリと切り落とされ、出さないでいられる自分になっていることに気づいて、「あれ?」と驚きます。
一流カウンセラーの技術と人格が、私の心をきれいに料理して下さったことを感じずにはいられません。
沈黙のまま、共に歩いていただけるとは、最高のカウンセリングであり、また、心の癒しの時間でもあるのです。
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キリストは何も言わずに共に歩いてくださり、私たちの深い絶望や希望を失ったつらさを十分に聞いて下さる御方です。
その信仰を持ちながら、今日の一日を進んで参りましょう。
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