今日のみ言葉【No.1149】(2015年10月 7日)

われわれはバビロンをいやそうとしたが、これはいえなかった。
(エレミヤ51:9)

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学生時代のある朝、私は腹痛で目を覚ましました。

同じ下宿に医学部6年生の先輩がいらっしゃったので

「練習台となって差し上げましょう」

という程度の軽い気持ちで

「診てもらえませんか?」

と頼むと、医者の卵であるその先輩は、

「入院かもしれないね」

と言い、すぐに大きな病院に電話をし、検査をしようというのです。

「まさか」とは思いましたが、もう手続きをして下さり、車で送ってくれるとも言われると、断るわけにもいきません。

結果は虫垂炎。いわゆる盲腸。即日入院、その日の午後手術ということになりました。

腹痛で苦しむ私のそばで、

「いやー、見立てが当たったな。これで僕も医者になる自信がついたよ。」

と笑顔で語りかけてこられた先輩に、私は言う言葉がありませんでしたが、あの時の

「病院に行こう」

と言われた言葉に従って本当に良かったと思いました。

人生には、辛さという包装紙に包まれた愛があるものなのです。

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神はイスラエルだけを愛する方ではなく、全世界の民を愛するお方です。

ですから、イスラエルへの裁きの器として用いられたバビロンをも愛しておられました。

しかし、前章の通り、バビロンは高ぶり、その高慢の罪によって滅びを招いてしまいます。

神はその前に何度もバビロンに対して方向を修正させようとする働きをなさいました。

それが今日の聖句で伺えます。

「われわれはバビロンをいやそうとした」
(エレミヤ51:9)

神の癒しの御手を拒んだバビロンは、

「その罰が天に達し、雲にまで及んでいる」
(エレミヤ51:9)

と表現されるほどになってしまいました。

「神は私を癒やそうとしておられる」

その神の御手を見ようとするかどうかが、人生を開きもし閉じもする鍵となります。

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Sさんは、「提出物を出さなくとも、そのままでいれば先生は見逃してくれる」という考えが染み込んでいました。

高校生になった最初の夏休み、読書感想文は未提出のまま終わりました。

出さなくても何事もなく、夏が終わり、秋になり、彼はすっかりそのことを忘れてしまいました。

そして冬休み。

クリスマスが終わり、お正月を目前にのんびりしていたその日、突然、担当の先生から電話がかかってきました。

「ずっと待っていたけど、とうとう自分からは言ってこなかったな。年が終わる前に出せよ。」

彼は冬休み中に登校させられ、窓の外に降り積もる雪を見ながら、夏休みの読書感想文を書き上げなければなりませんでした。

しかしこれが彼の人生を変えました。

「約束は守らなければならない」

彼の体に鉄の棒が1本、打ち込まれたようなものです。

現在、ビジネスに励み、手堅い信用を得ているSさんの人生があるのも、高校時代の先生の関わりがあってのことです。

「あのことがあって良かった」

そう思える人生を送っていきたいものです。

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主の癒やしの御手を見出す一日として参りましょう。

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