今日のみ言葉【No.1091】(2015年 7月21日)

見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。
(イザヤ60:2)

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お笑い芸人の又吉直樹さんが、日本文学界の大賞である芥川賞を受賞され、脚光を浴びています。

相当な努力の積み重ねと良き編集者との出会いがあって、才能が花開いたようです。

彼は下積み時代、風呂なし・トイレ共同の家賃2万5000円のアパートで暮らし、ひたすら本を読み、お笑いのネタを書くことに時間を費やしていました。

「お笑い芸人として売れることを目標とするなら、お笑いに費やす時間をまず確保しなければダメですよね。バイトを週1回にすれば、週の半分バイトしているヤツが5年間かけてお笑いに費やす時間を、2年半で確保することができるはず。もし、そのふたりの才能が同程度なら、売れる可能性が2倍早くなると考えていました」
(http://dime.jp/genre/192240/2/)

彼の芥川賞受賞は、入念な備えの上に咲いた花と言えるようです。

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イザヤ第60章は冒頭の節

「起きよ、光を放て。」

という勇ましい言葉で有名です。

ただし、これを、

「自分の光を輝かせること」

と理解してしまうと、自分でも素晴らしいと思える間は良いのですが、自分で作った基準以下のことしかできない時には平安を失ってしまいます。

また、

「それ!神様のお墨付きだ!」

とばかりに、この御言葉を盾にして暴走してしまう危険性を持った人も出てこられます。

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ここは、自分の能力や努力が世に認められて光を放つのではなく、

「あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」
(イザヤ60:2)

とあるように、神の光が私たちに降り注がれ、その反映として私たちが周りに光を放つ、ということのようです。

そしてこの個所は終末の預言の個所でもあります。

今すぐ、あるいは、私たちの都合の良い時に輝きが与えられるのではなく、そこには神の時があるのです。

その時には、周りが暗くとも、あなたには神のスポットライトが浴びせられます。

「主があなたを輝かされたからである。」
(イザヤ60:9)

私たちは、自分が輝くことを人生の目的にしてはいけません。

輝く時は神が輝かせてくださるのであり、神の時になれば否が応でも光が当てられます。

私たちがなすべきことは、神の光を待ち望み、淡々と今日もその備えをすることです。

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T姉はキリスト教幼稚園の先生として長年勤めておられます。

幼稚園児が洗礼を受けることは、無いとは言えませんが、あまりありません。

幼児の心に神の愛を知らせることが大切な職務であり、洗礼を受けさせ、教会員を養成する…、などということではないのです。

ところが、T先生を通して続々とクリスチャンになる方々が出ています。

それは卒園した子供たちが大人になり、幼心に蒔かれた神の言葉の種が芽を吹き、教会に行かれる方々が出てきたこと。

また、結婚して子どもができ、

「うちの子もT先生のお世話になろうかと思って…」

と、そのお子さんが親と同じ幼稚園に通うこととなり、またつながりができ、現在の悩みをT先生に相談することで教会に導かれる…、というケースなど様々です。

何十年も忠実に務めを果たしてこられたT先生は、地域の光であり、卒園児だった方々の悩みの時の駆け込み寺のような存在となっておられます。

しかし先生は、今日も淡々と、幼稚園に来る子供たちを愛し、神の愛に根ざした関わりを続けておられます。

神の栄光は、このような方々の上に輝くのでしょう。

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神があなたを輝かせて下さる時が来ます。

今日も神の愛を証しする一日として参りましょう。

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