今日のみ言葉【No.1087】(2015年 7月15日)

宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
(イザヤ56:3)

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「司馬遷(しばせん)は生き恥さらした男である」

これは武田泰淳氏の名著『司馬遷―史記の世界』の冒頭の文章です。

司馬遷は死刑を逃れる代わりに宮刑(去勢の刑罰)に処せられ、古代中国で宦官(かんがん)として生きなければなりませんでした。

出世と引き換えに自ら宦官を志す人たちもいました。

しかし司馬遷の場合はそうではありません。

もはや子孫を残せない身になったことで、彼は生きる望みを失ってしまったでしょうか?

いいえ。彼は自分が生きた証しを猛烈に求め出し、生涯をかけて中国の歴史を後世に残そうとしました。

それが、130巻、526,500字に及ぶ大著『史記』です。

彼がいなければ、紀伝体という歴史の記述形式も、項羽と劉邦の話もありません。

しかし、司馬遷のような人はごく少数です。

多くは歴史の表舞台には出てこない人々だったのです。

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今日の聖句は、特殊な人々であったその「宦官」をあえて取り上げ、彼らに対して

「見よ、わたしは枯れ木だ」

と言ってはならない、という神の言葉を語っています。

「宦官」とは、将来に何の希望も描くことができず、人々から差別され、人として認めてもらえない代表です。

しかし、どんな人にも神の国は開かれていて、希望があるのだ、と今日の聖句は語るのです。

神の国は新約聖書の時代、

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(ヨハネ14:6)

と言われるイエス・キリストを通して入っていくことが明らかにされました。

そして、事実、弟子たちが各地で伝道した時に、ピリポがエチオピヤ人の女王カンダケの宦官と出会い、彼が見事に救われた記事が使徒行伝第8章に記されています。

イザヤの預言は新約のピリポによって成就したのです。

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このエチオピアの名も知れぬ宦官は、その後、

「よろこびながら旅をつづけた。」
(使徒8:39)

とあります。

「わたしは枯れ木だ」

「私には何の希望もない」

と言う前に、

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

とおっしゃるイエス・キリストの言葉を聞き、この方に人生をお預けしてみるのです。

そこから先の人生の旅は、喜びの旅が続いていきます。

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イエス・キリストにこそ希望があります。

この方に今日一日をゆだね、喜びを味わう人生を歩ませていただきましょう。

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