今日のみ言葉【No.1078】(2015年 7月 4日)

われわれをあがなう者はその名を万軍の主といい、イスラエルの聖者である。
(イザヤ47:4)

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イザヤ書第47章には、バビロンの徹底的な破滅が預言されています。

神は背信のイスラエルに対し、バビロン捕囚という懲罰の形で裁きを下されました。

バビロニア帝国は神の裁きの道具として用いられたのです。

しかし彼らは自分たちを神の下に置かず、

「わたしは、とこしえに女王となる」
(イザヤ47:7)

「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく」
(イザヤ47:8)

と思い上がり、捕囚となったイスラエルを憐れみませんでした。

「処女なるバビロンの娘よ」
(イザヤ47:1)

と表現されるように、一度も侵略されたことのなかったバビロンに対し、神の裁きが下されました。

「一日のうちに、またたくまに」
(イザヤ47:9)

とあるように、あっという間にあの強大なはずのバビロンが侵略され、彼らが信じていた魔術や占いは何の力もないことが明らかにされたのです。

高ぶり、思いあがり、傲慢。

人を人とも思わず、我こそが一番と思い、それがいつまでも続くと思い込む…。

このような人間に、いつか一瞬にしてなされる神の裁きがあることは、現代に生きる私たちも同じです。

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47章の最後の言葉は、

「ひとりもあなたを救う者はない」
(イザヤ47:15)

と、とどめの言葉が記されています。

しかし、新約の時代に生きる私たちには、

「人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。」
(マタイ18:11)

と語られるイエス・キリストの救いがあります。

どこにも助けがないと見える現実の只中に、

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
(ルカ19:10)

と飛び込んで来てくださる救い主がおられるのです。

傲慢だったと気づかされ、全てを失った後で、それを悔やんでも始まりません。

「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
(ルカ5:31-32)

と言って下さる救い主が差し伸べる手を受け入れ、委ねていくこと。

ここに私たちの希望があります。

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私たちはいつでも新たな人生を始めることができます。

救い主の御手にすがり、新たな希望をいただいて、今日の一日を始めて参りましょう。

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