今日のみ言葉【No.1037】(2015年 5月14日)
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」
(イザヤ6:8)
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イザヤ書第6章にはイザヤの召命の記事が書かれてあります。
「召命(しょうめい)」とは、神様の御用のために献身するようにと神から命じられることです。
彼は見事に
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」
(イザヤ6:8)
とその召命に応じましたが、最初に神の臨在に触れた時は、
「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」
(イザヤ6:5)
と、自分の罪を示され、恐れが先立っていました。
しかし、神の使いのセラピムが燃える炭を彼の唇にあてて、
「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」
(イザヤ6:7)
と言った瞬間、神の力によって彼の罪はゆるされ、人間イザヤの罪は全て取り除かれました。
彼は腹の底からスッキリしました。
そこで初めて神は
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」
(イザヤ6:8)
と問われます。
ここに至って素直に
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」
(イザヤ6:8)
とイザヤの内側から、神に従っていく思いが湧き出て来たのです。
神が人を用いられるときは、このように神ご自身の手で人をきよめ、そして使命を与えられるのです。
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神の召命に対して、初回で応じる人はまずいません。
大抵の人は抵抗し、逃げます。自分の望む人生が生きられないと思うからです。
しかし、神の御声を聞いたが最後、何十年逃げても神は追いかけて来られます。
その神の迫りに息が詰まりそうになり、とうとう最後に人は神に降参するのです。
自分の人生は終わったように思いますが、それは自我に死んで新しい自分に生きるスタートでもあります。
「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」
(ローマ6:8)
そこからは神と共に生きる、全く新しい、思いもしなかった人生が待っているのです。
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神の御声に耳を澄ますひとときを持って参りましょう。
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