今日のみ言葉【No.1029】(2015年 4月21日)
わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。
(雅歌6:3)
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理系の男性は論理的な話し方をしますが、それが楽しい会話になるかというと疑問です。
特に、「要するに、…、ということだね」と、楽しい話も他人の話も全部まとめてしまうのが特徴なのだそうです。
これが多くの女性にとっては不満です。
面白おかしく話した会話は、そのまま楽しめばいいのに、なぜいちいち「要するに」とまとめなければならないのか、と女性はそのような男性の言い方に不快感を持ちます。
しかし、そのような男性に、「わかりやすい」と高評価を与え、恋愛に発展する方もいらっしゃいます。
全く人と人には相性があり、誰と誰がどうなるかはわからないものです。
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雅歌第6章は前章の続きで、男性を拒んだ女性が彼を探し求め、受け入れられた喜びが綴られています。
全く愛とは不合理なものです。
女に閉め出された男でしたが、今は彼女の方が自分を探し求めているのだと知ると、
「わが愛する者よ、あなたは美しいことテルザのごとく、麗しいことエルサレムのごとく、恐るべきこと旗を立てた軍勢のようだ。」
(雅歌6:4)
と、怒ることも仕返しもすることなく、コロッと参っているからです。
つまり、愛は損得で動くものではないということです。
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十字架の愛とはこのような愛なのではないでしょうか?
罪がゆるされるとは、まさに一切が消え去り、全く新しい純白の者として私たちが迎え入れられることです。
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」
(コロサイ2:14)
私たちは過去の記憶がありますから、時にチクリチクリと自分を責める時があるでしょう。
しかし神はそのような記憶を一切
「規定もろともぬり消し」
てしまわれたのです。
私たちを愛する方が、「もうない」「どこにもない」とおっしゃっているのですから、キリストの十字架による罪の許しを信じた者は、もう自分いじめはやめることです。
これが神の愛に応え、
「わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。」
(雅歌6:3)
と宣言して生きていく新しい生き方です。
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神に愛されている新しい人生を送って参りましょう。
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