今日のみ言葉(2011年4月23日)【No.34】

2012年1月23日

「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる。」
(マタイによる福音書13:31-32)

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スーパーの野菜売り場でよく見られるアボカドを買ってきて食べる時、真ん中にある種の大きさに驚きます。ほぼ半分が種なのではないでしょうか。ケチな私は、「食べない種の分もお金を払っているのか…」と、思ってしまいます。

それに比べて「からし種」の小さいこと。黒い粉かと見間違うほどで、本当に吹けば飛んで行ってしまう小ささと軽さです。しかしこの種が地にまかれ、発芽し、成長すると、「空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木」になるというのです。その秘密は種の大きさにあるのではなく、その中に「命」があることです。

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命あるものは、流れに逆らって上ることが出来ます。

毎年故郷の川に帰ってくる鮭は、命みなぎり、川の流れを遡って上流までたどり着きます。産卵を終え、命尽きれば、大きな体は流されていきます。しかし、体は小さくても、命あるメダカは流れに遡って泳いでいくことが出来ます。そうです、命あるものはたとえ一時流されることがあっても、やがて自分の方向に進んでいくことが出来るのです。

聖書は、自分の今の姿が大きかろうが小さかろうが問題ではない。内に命があるかどうか、そこが肝心なことだと語っています。そして、命あるものは、種をついばんで食べてしまう自分にとって敵である鳥をも、やがてその枝に宿らせ、休ませるようになる、というのです。

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第2次世界大戦中、アウシュビッツ収容所での体験を名著『夜と霧』で著したビクトール・フランクルは、極限生活から生き残った秘密を、「人生に意味を見出す」ことに挙げています。家族と離ればなれになった彼は、「この極限の苦しみの中で私が生きる理由は何か。それはもう一度愛する家族と会うためだ」と収容所生活に意味づけをしました。しかし、その時、既に奥様は亡くなられていたのです。

ナチスドイツに翻弄され、愛する人の死という過酷な現実を前にして、彼は絶望に陥ってもよいはずでした。しかし彼は収容所の体験記を書くことにエネルギーを向けたのです。戦後、強制収容所を扱った多くの本が出版された中で、現在も『夜と霧』が残った理由を、翻訳者の霜山徳爾さんはこう記しています。

「『夜と霧』が人の心を打つのは、フランクルが『告発しない』ことによります」

自分を虐げた側への復讐心に燃えるのではなく、どんな環境の中でも人間は意味を見出して生きていくことが出来る、という祝福を、誰でも受け取れるように分かち合ったところに、人々は「命」を感じたのではないでしょうか。

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成長の可能性は誰にでもあります。主イエスからいただいた命が内にあることを確認し、成長した自分の姿を思い描いて、今日も与えられた事をして行きましょう。

初期,御言葉

Posted by maruyama