今日のみ言葉【No.916】(2014年10月17日)
わたしの悩みの日にわたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられるからです。
(詩篇86:7)
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詩篇第86篇はダビデの祈りです。
第73篇から始まる第3巻では、ダビデの詩篇はこの一つだけです。
彼はいつものように神に助けを求めます。
ダビデの詩篇は常に神に助けを呼び求める祈りだと言っても過言ではないくらい、彼は神の力を必要としていました。
その理由は、ダビデが神の御心を行おうとしていたからです。
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永遠の命を求めてきたお金持ちの青年に対して、イエス様が
「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。」
(マタイ19:21)
と言われた時、
「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。」
(マタイ19:22)
とあります。
実行不可能な命令だと思ったのです。
しかしその彼を私たちは笑うことなどできません。
イエス・キリストのような生き方をしたいと願う弟子志望の人に対しては、
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
(ルカ9:23)
と自己犠牲の生涯を求めておられるからです。
さらに
「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」
(ルカ14:27)
とまで断言しておられます。
もちろんこれは、
「従わなければ命はないぞ!」
という脅しで人を思いのままに動かそうとする作戦ではありません。
私のために命を捨ててくださった神の愛に報いて生きていきたい、と真剣に願う者に対しての目標設定であり、チャレンジであり、厳しい命令でもあるのです。
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榎本保郎牧師は『旧約聖書一日一章』の中でこう述べています。
「この愛の迫りを受け、なんとかしてこたえていこうとするならば、応じられない自分の弱さを知り、助けを求めずにはいられなくなるはずである。」
ですから、ダビデは祈ったのです。
何度も何度も祈り、その都度、祈りが応えられない現実を体験し、神が見えなくなり、わからなくなり、霊的五里霧中の状態の中で、なおも祈り続けたのです。
そのダビデの
「わたしの悩みの日にわたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられるからです。」
(詩篇86:7)
という祈りの体験の結晶のような言葉ですから、気休めや軽々しい慰めではなく、真の重みが感じられます。
自分の弱さを感じざるを得ないほど、神のご命令に従っていきたいものです。
神の助けを求めなければ生きていけないほど、神のそば近くを歩いているという実感を持って生きておられるでしょうか?
神は今日そのチャレンジをあなたに与えておられます。
ダビデのように神に
「呼ばわり」
確かに
「あなたはわたしに答えられる」
という体験を神はさせようとしておられるのです。
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定年間近のTさんは年齢に応じた体の衰えを感じる昨今です。
「あとは退職金を無事もらうことが目標だな」と自分に言い聞かせて出勤していました。
しかし気になるのは職場の人たちの人間関係です。
「これでは士気も落ちるし、働きにくいだろう。何より、お客様へのサービスの質が落ちるかもしれない…。」
何とかしてあげたいのですが、アイディアもありませんし、あったとしてもそれをやり切る体力も実力も見当たらず、ただ指をくわえて見ているだけの日々が続きました。
クリスチャンのTさんは祈りを促されました。
あちこちに相談することを神様に示され、信頼のおける人たちに聞いて回りました。
そして得た結論が、
「しもべとして仕える」
ということでした。
イエス様が地上に来られた二千年前、馬小屋という身分の最も低い場所で生まれ、人々に仕える生涯を送られた…。
「私もそう生きよう。いや、そう生きさせていただこう。」
しもべとして後輩たちに仕える生き方をする、という事が一番しっくり来たのです。
定年までミスをしないように【ことなかれ主義】で通そうとした退屈な日々が、今や生き生きとした毎日に変わっています。
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今日も神に助けを求めましょう。神は答えられるからです。
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