今日のみ言葉【No.819】(2014年 5月 8日)
ヨブの言葉は終った。
(ヨブ記31:40)
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ヨブは我が身の潔白を主張し、言い終わりました。
実はヨブ記は最初の1章と2章、そして最後の42章があれば完結しています。
その間にある39章分はヨブとその友人との間の結論の出ない論争です。
そこでは自分の言い分だけが主張され、議論は平行線です。
不毛な時間のように思われますが、見方を変えれば、
「感情の吐き出し」
という面が見えてきます。
「頭ではわかるが、どうもそうする気になれなくて、体が動いてくれない。」
という時は、この感情・気持ちの整理がついていない時です。
つまり、まだ
「気が済んでいない」
のです。
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祈りの最終形態は、
「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」
(ルカ22:42)
です。
結論は最初から決まっているのですから、祈りは全て
「みこころが成るようにしてください」
で統一されても良いように思います。
しかし、イエス様のこのゲッセマネの祈りは、同じ節の直前にこうあります。
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
(ルカ22:42)
十字架につくのが自分の使命とわかっているのに、それが御心であると知っているのに、イエス様は
「この杯をわたしから取りのけてください。」
と苦しみを避けたいという気持を表されました。
「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」
(ルカ22:44)
どんなに苦しみ嘆いても、御心は変わらないのですから、それらは全部無駄なエネルギーの費やし方のように見えます。
しかし、旧約聖書のハンナのように心を注ぎ出して祈り、気の済むまで祈って初めて、本心から神の御心を受け入れられる心の状態になるのです。
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分かっていても出来ないあなたでいいのです。
神はそこからあなたを祈りに導いて下さいます。
その祈りは、叫びともうめきともつかない、言葉にならない気持ちの吐き出しに終止するのかもしれません。
しかし神はそれを祈りと受け取って下さいます。
聖霊の助けがあるからです。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」
(ローマ8:26)
安心して祈りに取り組みましょう。
神は全てを聞いてくださるお方であると信頼し、今日一日を歩んで参りましょう。
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