今日のみ言葉【No.1119】(2015年 8月31日)

ああ、地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞けよ。
(エレミヤ22:29)

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韓国の天気予報がよく外れます。

原因を調べたところ、各地の気象観測装置の点検を予算削減で1ヶ月に1回から半年に1回にしたことから、故障がほったらかしになっていたことが分かりました。

これでは当たるはずがありません。

機械も人間も、定期的に点検が施され、正しい姿に修正されてこそ、最初に意図された通りの結果が出されるのです。

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エレミヤ書第22章では5人の王が出てきます。

そのうちのヨシヤ王だけが認められ、後の4人は厳しく批判されています。

神の言葉に聞き従わなかったからです。

ヨシヤ王に関してはこう言われています。

「あなたの父は食い飲みし、公平と正義を行って、幸を得たのではないか。彼は貧しい人と乏しい人の訴えをただして、さいわいを得た。こうすることがわたしを知ることではないかと主は言われる。」
(エレミヤ22:15-16)

しかしその後の王たちは、

「公平と正義」

が欠けていたのです。

エレミヤは何度もこのことを伝えますが、彼らは耳を貸そうとせず、自分の利を求めることに熱中し、不正・圧制・暴虐の道を突き進んでいきます。

「ああ、地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞けよ。」
(エレミヤ22:29)

エレミヤは嘆きの叫びをあげるしかできませんでした。

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彼らを反面教師として私たちが学べることは、

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」
(詩篇46:10)

の御言葉です。

エレミヤが

「地よ、地よ、地よ」

と3度も叫んだのは、私たちが自分こそ正しい者として、神のように天に上ってしまうことを戒めている言葉です。

私たちは地の者、つまり、罪人です。

静まって、自分を遥かに超えた神の存在に心を向ける時、私たちは自分が不完全な罪ある存在であることがわかります。

そしてその私の罪の身代わりとして十字架にかかって下さったキリストにより、罪赦され、神はもはや裁きの神ではなく、愛の神として慈しみの眼を向けてくださっていることを知るのです。

そこからは、自分の要求を神に呑ませる戦いの生き方ではなく、神が与えるものを「食い飲みし」、共に歩む平和の生活が始まります。

時にイエス様が味わったような苦しみの杯が差し出される時もあります。

しかし、神の愛ゆえに差し出されていることを知る時、私たちは甘んじてそれを受け入れ、やがて飲み干した自分に気づくのです。

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私は親を完全に受け入れ、乗り越えたわけではありませんが、自分の罪人性を受け入れた分だけ、親を受け入れられるようになったと思っています。

父はお金に細かく、お金に執着する人でした。

亡くなる数日前まで、枕元に預金通帳を置き、それを見ていました。

この世でお金以外頼れるものがなかったのでしょう。

私はその姿を見て、「は〜」とため息をついていましたが、責める気にはなりませんでした。

クリスチャンの私ですから、お金の有る無しにかかわらず、神がおられるのだから何の心配をもする必要がない、という信仰を持っています。

しかし、お金がなければ不安になり、お金が入ればホッとする罪人の私が現に存在しています。

本来ならば、そのような自分でいていいはずはないのです。

しかし、私の罪を許して下さり、そのままの姿で愛して下さる神は、このような私を罰するわけではなく、ここからの成長を期待し、育てようとしてくださっています。

私は父と自分は同じだとは思いたくありませんが、根っこは同じだと認めざるを得ません。

しかし、この自分が赦されているので、同じたぐいの罪人を目の前にしても、感情を引き出されることもなく、目を背けることもなく、じっと見ていることができるのです。

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地に張り付き、罪人の自分のままで赦され、生きていられる恵みを今日も味わって参りましょう。

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