今日のみ言葉【No.813】(2014年 4月26日)

それで人はどうして神の前に正しくありえようか。
(ヨブ記25:4)

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「高度経済成長を果たした日本にいながら、その豊かさを実感できないのはなぜか?」

この質問に対する答えは実にシンプルです。

「貧しさの体験に乏しいから」

これが解答です。

物がなく貧しい時代を体験した人は、今の豊かさを過去との比較で実感することができます。

しかし、生まれながらに豊かな時代を生きている人は、これが当たり前で普通なのですから、「豊か」とは実感できないのが当然です。

貧しさや苦労の中に居続ける必要はありませんが、貧しさや苦労を体験して初めて味わえる豊かさや幸福感があります。

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ヨブ記第25章は6節までしか無い短い章です。

ヨブと友人たちとの議論は平行線。言いたいことはほぼ言い尽くされました。

しかもヨブの関心は、友人たちの言葉よりも沈黙を続ける神ご自身の態度へと移りつつあります。

もはや友人ビルダデも言うべき言葉に詰まったのかもしれません。

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ビルダデが言った

「それで人はどうして神の前に正しくありえようか。」
(ヨブ記25:4)

は、直接はヨブに向かって語りかけられましたが、それはブーメランのように自分自身へも返って来たことでしょう。

今まで、「ヨブに非あり」「彼に罪あり」として、自分は正しい側にいると思っていたのに、ふと、

「人はどうして神の前に正しくありえようか。」

という「人」の中に自分も含まれていることに気づくと、誰も他人をそれ以上追求することはできなくなります。

25章が短いのはそのせいなのかもしれません。

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神の前にいかにして正しくいられるか、の難問に対して、実にあっさりと新約聖書に解答があります。

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による」
(ガラテヤ2:16)

イエス・キリストを救い主と信じること。ただそれだけで神の前に無罪とされ、義とされます。

この救いが何とありがたいものであるかと感じるためには、その前の

「罪のもだえ」

が必要です。

正しく生きようと思ってもそうできない。

やらなくてもいいことをやっている。

自分を何度責めてもまた元に戻ってしまう。

ほとほと自分に愛想が尽きるほどの惨めな体験があればあるほど、

「ただキリスト・イエスを信じる信仰による」

だけで救われることのありがたみが感じられるのです。

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神様はあなたが良かったと思う体験も悪かったと思う体験も全て用いて下さいます。

「人はどうして神の前に正しくありえようか。」

この問いに明快に答えられるように、あのつらい日々があったのです。

今日も天を見上げ、キリストを信じる恵みを味わって参りましょう。

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