今日のみ言葉【No.791】(2014年 3月20日)

この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。
(ヨブ記3:1)

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夏の暑い盛り、ジリジリと太陽が照りつけるグラウンドで、2本のタイヤをロープで腰に巻きつけた高校生が、ハアハア言いながら、あごを突き出し、汗だくで走っています。

いじめでしょうか?虐待でしょうか?

いいえ、彼は甲子園出場を目指す野球部員です。

彼は何のためにこの苦しいトレーニングをしているのか理解しているので、

「次の1周はタイヤをもう1本増やそうか」

とまで考え、目を輝かせて走っています。

人は苦しみの意味がわかっていると耐えることができます。

耐えられないのは、なぜ自分がこの苦しみを味わわねばならないのか、意味も理由もわからない時です。

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ヨブはまさしくこの中を通らされていました。

またたく間に財産と子供たちを失い、自分は全身の腫物に悩まされる…。

「なぜ自分がこの苦しみを味わわねばならないのか?」

「何が原因でこうなったのか?」

「自分はこの苦しみに値する罪を犯したか?」

いくら考えても心当たりはありません。

すると行き着く先は次の2つです。

(1)なぜ死ななかったのか
「なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。」
(ヨブ記3:11)

こんな人生など最初っから無い方がよかったのだ、という考え方です。

(2)なぜ苦しみながらでも生きていかなければならないのか
「なにゆえ、悩む者に光を賜い、心の苦しむ者に命を賜わったのか。」
(ヨブ記3:20)

生きることが苦しむことばかりなら、そもそも生きる理由などあるのか、という疑問です。

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このような人生の根源的問いに対する答はヨブ記の最終部分に譲るとして、応急処置はあります。

それはヨブの苦しみを解決してあげようとすることではなく、彼の悲しみと苦しみに寄り添うことです。

「大変だったなー」

「それは辛いね」

これは言葉だけですと相手の傷を逆なでし、かえってひどい思いを味わわせてしまいます。

しかし、ある方々が語ると、これらの言葉がその苦しみの渦中にいる人の慰めと癒しになるのです。

どんな人たちでしょう?

それは、同じ苦しみと悲しみを味わった人たちです。

上からの同情的目線での

「大変だったでしょう。辛いですよね。」

という言葉ではなく、全く同じ高さの目線で、

「大変だったよね。そりゃ辛いわ。」

と共感して言ってもらう言葉で、人は慰めを得、苦しみを分かち合うことによって心の重荷が減るのです。

あなたが今味わっている苦しみや悲しみの体験は、将来、誰かの慰め手となるために必ず生かされます。

なぜ今こういう状態から抜け出せないかはわからないでしょう。

しかし、あなたの体験を必要とする人を神は備えていてくださり、その人に寄り添えるのはあなたしかいないという未来が必ずあるのです。

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昔の米沢興譲教会の会堂の2軒家を挟んだ先に神社がありました。

日曜の朝、その境内に幼い女の子を連れたお母さんがポツンといらっしゃいました。

「お早うございます!よかったら教会にいらっしゃいませんか?」

と明るく声をかける教会員には何の反応も示しません。

その内、クリスチャンのYさんが通りがかりました。

彼女はピンと来ました。

「あの人、私と同じにおいがする…」

思い切って声をかけてみました。

「私、これから教会に行くのですが、あなたもどうですか?」

不思議とその若いお母さんはYさんの言葉には反応しました。

そしてわかりました。

Yさんは離婚し、幼いお子さんを失うという境遇からクリスチャンになられた方ですが、そのお母さんも同じような境遇で、つい最近離婚したばかりだったのです。

Yさんと共にその日礼拝に出席されたお母さんが、やがてイエス様の救いを信じ、洗礼を受けてクリスチャンになられたことは皆様も想像がつくことでしょう。

それは誰も触れることの出来なかった心の傷をそっと包めるYさんがいたゆえだったのです。

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あなたの過去の心の痛手は、主によって変えられ、どなたかの心の傷のための包帯となります。

心の傷を神の光の中に差し出し、愛の人として用いられるようにゆだねてまいりましょう。

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