今日のみ言葉【No.1442】(2016年12月21日) 055 「クレネ人シモン」(1)

彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。
(マタイ27:32)

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「お遍路さん」と呼ばれ、四国88ヶ所のお寺を巡礼する修行であったものが、最近の参加者の意識には観光の要素も入って来ているように思えます。

全部回ると約1200kmの距離を歩くことになるそうです。

今日の登場人物のシモンが住んでいたクレネは北アフリカにあり、エルサレムまで約1500kmの距離にあります。

彼も自分なりの強い意志を持ち、お遍路さん同様に巡礼にやって来たのでしょう。

しかし彼はそこで思いもよらない出来事に出会い、人生が全く変わってしまいます。

それは十字架を負わされるということでした。

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イスラエル聖地旅行に行かれた方は、イエス様が十字架を負って歩まれた道(ビア・ドロローサ)をご自分の足で歩いたことでしょう。

今は各種書籍やインターネットでその様子が手に取るように分かる時代です。

当時、十字架刑は町の城門の外の処刑場で執行されました。

ゴルゴタの丘は決して美しいところではありません。

「町の外れの外れのゴミ廃棄場」というイメージを持っていただくと一番良いかと思います。

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受刑者は自分がかかる十字架の木を背負って刑場に向かいました。

鉋で綺麗に削ったツルツルの肌触りの良い木ではありません。ゴツゴツザラザラ、あちこちにトゲが残っていたはずです。

重いその木を負うのはなるべく短い時間で済ましたいところですが、刑罰を受ける人間なのですから苦しみを味わわなければなりません。

彼らは刑場まで、できる限り長い距離を歩かされ、市中引き回しにされたのです。

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イエス様はその途中、自分でその木を負って歩くことができなくなってしまわれたようです。

ローマ軍は、その占領国において、誰でもどんな仕事にも自分の用にその占領民を徴用することができました。

「おい、そこの者。お前が負え」とでも言われ、槍で肩を叩かれたら嫌でも従わなければなりません。

それがクレネ人シモンだったのです。

彼はたまたま通りかかったばかりに、これから十字架刑に処せらようとしている犯罪人の十字架を、無理矢理負わされることになってしまったのです。

彼の人生計画にはそんなことは全く書いてありませんでした。

そんな無駄なことをするためにはるばる1500キロの道のりをエルサレムまで来たのではありません。

ところが、結果として、彼が運命のいたずらとしてしょうがなく負った十字架を通して、人生が大きく変えられて行ったのでした。

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教会には、自分のせいでないことで、たまたま来て、そして救われていった人たちが沢山おられます。

お子さんの不登校、親の借金問題、相手の不倫、想定外の病気等、自分が直接悪いことをしたからこうなった、とは説明し難い問題にぶつかった人たちです。

問題解決のためにあちこちを渡り歩き、もがき抜き、そしてただ教会に来てみただけなのです。

効果がなければまた別のところへ行く予定で、ただ単に途中下車してみて、何もないよりはまだましだろう、という意識であったとしてもおかしくはありません。

問題の渦中にいれば、とにかく今すぐ自分を楽にしてくれるものを尋ね歩き、問題解決になるなら一寸でも光を求めて探しまわるものなのです。

しかし、そこに神様が待っておられ、人間の計画書に書かれてなくとも、神の永遠のご計画の中にはしっかりスケジュールされている導きだったのです。

苦しみを通して、人は多く神に近づくものです。

人生の種々の重荷は、その醜い包装紙を破いてみれば、「神へ導くガイドブック」という製品が現れるのかもしれません。

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嫌々負わされる重荷がキリストとの出会いを招くことがあります。

そこに神の配慮があると信じて、今日の歩みを進めて参りましょう。

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