今日のみ言葉【No.3616】(2025年 4月18日)「夕食の用意をする僕の話(2)」

同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。
(ルカ17:10)

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田中美男(よしお)牧師は、早天祈祷会でよく「ひげまん」の話をされました。

それは、自分を卑下(ひげ)するかのように見せかけながら、実は内に傲慢(ごうまん)な思いを秘めている、という状態のことです。

たとえば、

「私なんかダメなんです」

と言う人に、

「本当にそうですね。あなたはダメな人です」

と返すと、その人が言ったとおりのことをこちらは言っているのに、当の本人は怒り出します。

それは、その人が本気で自分を「ダメな人間」だと思っているわけではないからです。

むしろ、表面的には謙遜しているようで、

「私を誰だと思っているのか!」

という思いが心の奥に隠れているわけです。

イエス様が語られた「ふつつかな僕です」という告白は、そのような“卑下慢(ひげまん)”ではなく、命ある信仰の表れです。

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からし種一粒ほどの信仰、生きた信仰とはどういうものなのでしょう。

イエス様はそれを一言で表現されました。

「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」
(ルカ17:10)

宗教改革者として、プロテスタントの神学と教会形成に深い影響を与えたカルヴァンは、この箇所についてこう述べています。

「この譬(たとえ)の目的は、神が私たちに属する一切を御自身のものとして主張され、私たちの身も働きも全面的に支配しておられることを示すことだ」

つまりこれは、クリスチャンの一切合切(いっさいがっさい)が、すべて主より出ていることの告白なのです。

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「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」
(ルカ17:10)

とは、

「自分は無用の長物です。何をしても役に立たない者です」

という自己卑下を意味しているのではありません。

また、

「絶対に自分がやったと自慢してはならない。自分の功績だと主張してはならない」

といった、人間の業(わざ)を極端に否定する考え方でもありません。

信仰とは、何かをすることではありません。

ただ受けることです。

神がすべてを与えてくださり、それを受ける「手」が信仰なのです。

「つまずかせぬ配慮も、訓戒し赦す知恵と愛も、すべては、神とキリストから愛せられて恵みを受けることからだけ、可能になるのです」
(榊原康夫著、『聖書講解 ルカの福音書』より)

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自分のなすすべてのことは、神から与えられて成し遂げられている。

そのような信仰を、日々の歩みの中で少しずつ身につけていきましょう。

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