今日のみ言葉【No.613】(2013年 7月20日)

サウルは立って、ジフの荒野でダビデを捜すために、イスラエルのうちから選んだ三千人をひき連れて、ジフの荒野に下った。
(サムエル記上26:2)

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24章でほら穴の中に入って来たサウルを殺そうとせず、無事に帰し、無抵抗の姿勢を示したダビデ。

サウル王は

「声をあげて泣いた。」

とあります。

自分の過ちに気づいたのです。

しかしその涙が乾くか乾かないかの内に、彼はまたダビデを追いかけ、その命を奪おうとします。

サウル王は相当猜疑心が強く、嫉妬の固まりのような人だったことがうかがえます。

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それに対し、ダビデは深夜サウル王の間近に忍び込み、そのまくらもとにあるやりと水のびんを取るだけで危害を加えず、去って行きます。

主に油注がれた者には決して手をかけないというダビデの主に忠実な姿です。

ここに二人の人の対照的な、そして共通の姿が浮き彫りにされます。

対照的なのは、サウルの猜疑心とダビデの高潔な人格。

共通点とは、人は同じ事を繰り返す、ということです。

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サウルは自分の過ちに気づき、涙を流して後悔しました。

しかしまた同じ過ちを犯します。

それが人間なのです。

何度も何度も、人は同じ過ちを繰り返す存在です。

なぜなら、過ちを直そうとし、赦そうとしないからです。

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カウンセリングの基本では、相手を直そうとしません。

直そうという関わりは、相手を否定する関わりだからです。

ダメだから直せる。どこもダメでなければ直すことは不可能です。

ですから、

「あの人のここは直した方がいい」

と思えるのは、その人にダメな部分を発見できたからです。

さて、直されようとすると、相手は抵抗します。

「あなたはダメなのよ。だから直してあげるの。」

という関わり方をされるからです。

相手にとっては自分を否定される関わり方ですから、当然抵抗します。

これと同じ事が自分で自分を直そうとする時に起こります。

自分を直そうとして、自分自身に一生懸命言い聞かせると、内なるもう一人の自分が抵抗し始めます。

自分が否定されたままで、ダメだと失格の烙印を押されたくないのです。

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ですから、カウンセリングの世界では、

「直そうとするな、わかろうとせよ」

というのが鉄則です。

相手を直そうとせず、まず分かってあげること。

これを「受容」と言います。

カウンセラーに受け入れられることによって、相手は自分を直そうとする必要はなくなり、自分の失敗や短所を受け入れられるようになっていきます。

今までは自分の過ちを直そうとしてきました。

それは、自分の過去や出来事に触れるのを拒否することで、見ようともしなかったのですから、それが変化するはずはありません。

直そうとすることが同じ事を繰り返す原因となっていたのです。

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自分を許すこと。これがポイントです。

そこで初めて自分自身のすべてを受け入れることが始まり、自分の過ちに手がつけられるからです。

旧約時代、そのためには動物のいけにえを捧げたり、多大な犠牲を払わなければなりませんでした。

しかし新約の時代の今は、神の子イエス・キリストがその命という高価な犠牲を代わりに払ってくださったので、私たちは何も支払う必要はなくなりました。

ただ、

「キリストが私の身代わりに罪の報酬を受けてくださり、私は赦された」

と信じるだけで救われるのです。

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ですから、

「自分をスパッとゆるす」

のです。

ネチネチとあれやこれや自分をいじめてはいけません。

また、自分を赦すことをためらってはいけません。

赦すことに努力をしてはいけないのです。

あっさり、思いっきり、

「ゴメン!」

と神様に言って、自分を直そうとせず、まずゆるしの恵みを受け取ることです。

同じ過ちを繰り返す自分が変わっていくのはそれからです。

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イエス様の罪の許しを受け取る一日として参りましょう。