今日のみ言葉【No.541】(2013年 4月10日)
箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、…、上から流れくだる水はとどまって、…、全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。
(ヨシュア記3:15-16)
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昔ながらのエスカレーターはずっと回りっぱなしですが、最近は止まっているエスカレーターをよく見ます。
「故障?それとも節電?」と思って近づくと、センサーがそれをキャッチして動き出します。
なるほど、と思って安心してエスカレーターに乗ることができます。
しかし、神のエスカレーターは事前に動き出してはくれません。
止まったままで動きそうもないところへ、
「でも、これで次の階へ行けると言われるのだから…」と、一歩足を踏み入れ、体重を移動した後に、グゥーンと動き出すのです。
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ヨシュアがヨルダン川を渡る時がまさにそれでした。
約束の地カナンはこの川の向こうです。
神の約束が確かなら、イスラエルの民は川を渡って向こう岸にいることは確実なのです。
しかし、現実は、
「ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれる」
(ヨシュア記3:15)
という状況だったのです。
頑強な男たちなら体力に物を言わせて渡れます。
しかし、女性や子供たちは無理です。まして家畜や荷物を抱えてでは到底不可能だということは目に見えています。
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ここで神はヨシュアにこう語られたのです。
「あなたは契約の箱をかく祭司たちに命じて言わなければならない、『あなたがたは、ヨルダンの水ぎわへ行くと、すぐ、ヨルダンの中に立ちとどまらなければならない』」
(ヨシュア記3:8)
神の臨在の象徴である契約の箱をかつぐ祭司たちは、水があふれていようと激流であったとしても、躊躇することなくヨルダン川の中に入り、そこにいなさい、ということでした。
人間には理解できないこの言葉に「はい」と従い、祭司たちが足を水に浸した時、ヨルダン川の水の流れは止まりました。
かつてモーセに率いられ、紅海の中の乾いた地を通ったように、ヨシュアに率いられたイスラエルの民はヨルダン川の中の乾いた地を通っていくことができたのです。
そして、
「主の契約の箱をかく祭司たちはヨルダンの中から上がってきたが、祭司たちの足の裏がかわいた地にあがると同時に、ヨルダンの水はもとの所に流れかえって、以前のように、その岸にことごとくあふれた。」
(ヨシュア記4:18)
という神のみ業を見たのです。
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神の言葉が語られた時には、ヨルダン川に足を浸す、という決断と行動を起こすことなのです。
もちろん、神の言葉が語られない時にそれを行うと、自分の思いですることになりますから、自分でその結果の責任を取らなければなりません。
本当に神が自分に語られたのか、それとも、自分の思いか、サタンのささやきか、人からの言葉かは、祈りを通して相当吟味しなければなりません。
しかし、確かに
「主はヨシュアに言われた」
(ヨシュア記3:7)
という時には、動きそうもないエスカレーターの前でうろうろしてもダメです。
一歩踏み出すのです。
それでも神のエスカレーターが動かないのは、片足をまだ後ろに残しているからかもしれません。
新幹線に乗るのに片足を乗せ、
「何かあったらまた戻れるように…」
ともう一方の足をホームに残していたのでは、JRの方は危険で新幹線を発車できません。
全体重を載せるということは、全存在を神にゆだねるということです。
委ねた瞬間に神のエスカレーターは動き出します。
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神との信頼関係を構築して参りましょう。
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