今日のみ言葉【No.1873】(2018年11月 5日)「 教会(2)」
さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
(マルコ3:13)
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礼拝中、子供たちは隣の部屋にいて、私の家内が相手をしています。
「てっちゃん」という男の子がAIスピーカーを見つけて、
「アレクサ、ひまだ〜」
と言うと、その音声をキャッチしたAIスピーカーが反応しました。
「遊びましょう。じゃんけんして、と言ってみてください」
この人格を持っているかのような反応に、てっちゃんの目は輝きました。
家内も周りの子も
「てっちゃん、すごい!」
「こんなこともできるんだ!」
とほめてくれます。
彼は「エヘヘ」と得意そうに笑います。
聖句を暗唱する時間はなくても、この愛され体験をするために子供たちは教会に呼び集められているのではないかと私は思います。
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教会とは神に呼び集められた者の群れです。
その原型がイエス様によって呼び集められた十二弟子です。
「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた」
(マルコ3:13)
彼らが集められたのは何のためだったのでしょう?
聖書はこう記しています。
「そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」
(マルコ3:14-15)
教会の使命がこの3点にあります。
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第1番目は「彼らを自分のそばに置くため」です。
自分のそばに置くとは、弟子たちに実地で見聞させるためです。
理論理屈や知識を頭に入れ、それで「わかった」として終わりにするのではありません。
頭で理解することも必要ですが、自分の目で見、自分の耳で聞き、手で触り、足を運び、体験を通して「わかった」とするのです。
ではイエス様は彼らに何をわからせようとしたのでしょう?
それは、イエス様がこの世に来られた目的は何か、ということです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネ3:16)
教会はこの神の愛を伝え、イエス・キリストというお方が何のために地上に来られたのかを教えることが使命となります。
ですから、教会に来て、礼拝や様々な集会で聖書を学ぶことによりキリストを正しく理解することが一番オーソドックスな教会へ来る目的となります。
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さて、子供時代、親に連れられて教会に来ていた人たちの多くは教会を離れていきます。
教会の礼拝よりもこの世の生活のほうが魅力的であり、自分を伸ばす可能性を感じるからです。
その中で、やがて問題に突き当たり、ふと幼い頃過ごした教会を大人になってから訪ねてくれる人たちがいらっしゃいます。
一様に言われることは、
「懐かしい〜!」
「変わってない!」
という言葉です。
自分が遊んだおもちゃがまだ残っているのを見て、思わず手に取り、うっとりと眺めている人もいます。
そこで思い起こすのは、自分は愛されていたという記憶です。
そこに神様がいて、私は愛されていたという暖かい記憶がよみがえってきます。
彼ら彼女らにとって、その愛され体験が動かしようのない確かな土台となり、行き詰まりからのV字回復へとつながっていくのです。
教会に愛の記憶があること。
これこそが最も残すべき、伝えるべきものなのだと私はしみじみと思わせられています。
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イエス・キリストの愛で愛されている自分を確認する今日として参りましょう。
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